王平(おうへい)「諸葛丞相から教えを受けたのだ。馬謖殿、山は逃げ場がありませんぞ」と直言した忠義な堅物【三国志 正史と演義の比較】




三国志

字は子均。巴西郡宕渠県の人。諸葛亮の北伐の時、後に諸葛亮に「泣いて斬」られる馬謖の補佐となる。

馬謖は、王平の反対を押し切って山の上に陣を布き、司馬懿に大敗。この時、王平配下の千人だけが、敗走する味方の後尾で踏みとどまって戦い、張部の追撃を押しとどめました。

演義の王平

もともとは魏の牙門将軍。徐晃に従って漢 中攻めに加わる。しかし、徐晃が進言を容れず、殺されかかったため、超雲に投降し、偏将軍に任じられます。

徐晃に殺されかかった経緯をもう少し詳しく見ておきましょう。魏の副先鋒として出馬したが、先鋒の徐晃が漢水を渡って布陣せよとしたのに対し、「蜀軍の相手は名将超雲と黄忠だから無謀である」と諌めました。しかし、徐晃は王平をその場に残し、自ら漢水を渡って結局敗れてしまいました。その後、蜀に投降。劉備に漢水一帯の地理を詳しく話して偏将軍・郷導使(道案内)に任ぜられました。

さて、劉備の死後、諸葛亮に従って南蛮討伐で数々の功を立てます。北伐でも戦功を立てました。

諸葛亮の死後、蒋碗の推拳で永安へ行き、呉の進攻に備えました。諸葛亮の南蛮征伐に参加。このときは唖泉(あせん。飲むと口きけなくなり10日以内に死ぬ)の毒にあたって苦しんでいます。

正史の王平

劉備に降伏後、順調に出世し、街亭の戦いでは山上に陣を布こうとした馬謖を諌めたが聞き入れられません。馬謖軍が敗れると王平は魏延とともに漢中に戻り、諸葛亮に弁明しています。

大敗した街亭の戦いで、他の者が処罰されるなか、討冠将軍、亭侯の位を授けられた。

諸葛亮の死後も後典軍、安漢将軍と昇進し、漢中太守として、漢中の守りを固めました。

魏の曹爽と夏侯玄が漢中に攻めてきたとき、わずか三万の兵で迎え撃ち、追い返しました。

字は十ほどしか書けなかったが、学はありました冗談の通じない堅苦しい性格

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