2つの三国志
ひと口に三国志といっても、二つの三国志があります。何がどのようにちがうのでしょうか?
正史
ひとつは、3世紀後半に陳寿が著し、後に正史、すなわち正統な歴史書と位置づけられる『三国志』です。
演義
もうひとつは、14世紀の明の時代に羅貫中がまとめた小説『三国志演義』です。
正史に加え、長年にわたり語り継がれてきた講談や民間伝承をもとに、魏呉蜀の時代から1000年以上経ってまとめられたのが、演義です。
日本人の「三国志」=演義
演義は劉備が樹立した蜀を正統な王朝としています。そのため、全体として蜀びいきです。
劉備、関羽、張飛の三義兄弟が華々しく活躍する一方で、漢帝国からの皇位簒奪を目論む悪玉・曹操がいて、勧善懲悪的な物語という側面もあります。
演義が蜀を正統とした理由
朱子学の時代
なぜ演義は蜀を正統としたのでしょうか?
演義がまとめられた明の時代は、朱子学が官学=政府が認めた正式な学問でした。
その朱子学の創始者である朱熹(しゅき)は、蜀を正統と見なしていたのです。
朱熹の時代
朱熹が生きた十二世紀後半は、漢民族が異民族に圧迫されて華北を失った時代で、そうした境遇を、蜀と重ね合わせていたのでしょう。
そして演義の作者である羅貫中も、朱子学に影響されて蜀を正統としたのです。
あなどれない演義の価値
三国志研究で名高い渡邉義浩教授によると、小説、簡単に言えば作り話とはいえ、演義の資料的価値が低くはないそうです。
演義は、70%の史実に30%の虚構と言われています。大筋は史実に基づいていながら、巧みに虚構も取り入れています。決して荒唐無稽ではなく、非常によくできた小説とのことです。
信用できない正史の価値
勝者の歴史
逆に、正史が正しいかというと、そうとも言い切れません。
正史は、正統な王朝を、三国志の時代の最終的な勝者である魏(その後の晋)をとしています。
そのため、魏建国の父・曹操に関する悪事を隠そうとし、蜀と呉を貶めるというのが基本的スタンスです。例えば、その記述では、呉の孫権や蜀の劉備は、魏の家臣に過ぎません。
陳寿は蜀派?!
ところが、正史の著者である陳寿は、表向きは魏びいきに書いてあるものの、実は蜀にも配慮しているようです。
例えば、「告代祭天文(こくだいさいてんぶん)」という、皇帝に即位したときに、それを天に告げるための重要な文章があります。
陳寿は、この文章を、正史の劉備伝には入れているですが、曹操の息子で魏の初代皇帝となった曹丕の本紀には、意外なことに入っていません(後世の歴史家が注釈で補っていますが…)。
つまり陳寿は、蜀こそが漢帝国の正統な後継であることを匂わせているのです。
陳寿が蜀びいきする理由
なぜ正史の陳寿が蜀に好意的なのでしょうか?
それは、陳寿が蜀の旧臣であることが影響しています。
陳寿は諸葛亮の文集である『諸葛氏集』を編纂した功績が認められ、魏の後継となる西晋から、『正史』の編纂を任されるようになった人物です。
とはいえ、魏を否定するのは、西晋の正統性を否定することにもつながり、それを表立ってすることはできません。しかし、蜀への思い入れから、細部に工夫をこらしたのです。
正史と演義で最もちがう点
曹操の実像
演義では悪玉とされる曹操ですが、史実においては、桁外れの行動力と変革力を発揮しており、規格外の「史上屈指の時代の変革者」と評せます。
当代随一の兵法家でもあり、この時代における一番の天才といってもいいでしょう。
諸葛亮が〝活躍した〟赤壁の戦い
有名な場面で最もフィクションが多いのが、赤壁の戦いだと言われています。
曹操が負けたため、正史では赤壁の戦いについてほとんど書かれていません。
その一方で、演義では、諸葛亮が風を吹かせたり、関羽が曹操を見逃す場面などは史実ではありません。フィクションなのです。
ほぼ史実通りの有名場面
逆に演義には史実通りの場面も多いです。
物語前半のクライマックスの一つ、官渡の戦いは、そもそも正史に戦いの模様が詳しく書かれているため、フィクションが少ない場面です。
虚構はというと、文醜という武将を斬ったのが、関羽とされていることくらいです。
物語後半では、漢中の戦い、荊州争奪戦、五丈原の戦いについては、大枠としてはさほど大きなフィクションはありません。
漢中の戦いでの趙雲の活躍が飛躍し過ぎているくらいです。
参考:歴史街道2019年9月号など