【三国志 正史と演義の比較】閻圃(えんほ)、張魯配下の良識派軍師!猛将・龐徳の命も救う【史実との違い】




三国志

五斗米道の教祖である漢中の張魯も仕えた功曹(こうそう 地元の権勢者)。

主君の張魯が曹操に降ると陪臣(ばいしん 家来の家来)にもかかわらず闇圃も列侯に封ぜられました。

演義の閻圃

張魯の勇み足を常に諌めてくれる、冷静な一面が描かれています。

演義には官職が記されていませんが、頼れる軍師的な役回りです。

張魯に蜀の劉璋を脅して西川を併合し、王位に就くことを進言しました。

劉備に攻められた劉璋が黄権を使者に立てて援軍を求めてきた時には反対したが、聞き入れられませんでした。

劉障攻めを勧めたり、猛将の龐徳を斬ろうとするのを止めたりと、アドバイザーとして多岐にわたって建言をしています。

龐徳の命の恩人

龐徳に関しては次のような話です。

漢中に攻め寄せた曹操軍に対して龐徳を指揮官にするように進言します。

しかし、張魯は楊松の譲言に惑わされ、龐徳を斬ろうとしたので、懸命に諌めて止めました。

つづいて楊松に勧められて自ら出陣しようとする張魯を止めるが、結局出陣した張魯は曹操に降伏しています。

214年に曹操軍に降伏するまで、張魯の参謀として重用され、曹操陣営に降った後
は、曹叡の代まで仕えることになりました。

正史の閻圃

王号を唱えようとした張魯を思い止まらせたことが、曹操から高く評価され、爵位を賜わっています。また馬超の妾、董氏を与えられてもいます。

タイトルとURLをコピーしました