夭折の天才
三国志の中には、惜しまれつつ早過ぎる死わむかえる英雄がいます。三十六歳で病死した周瑜、やはり三十六歳で戦死した龐統、四十二歳で病死した呂蒙、そしてここで取り上げる郭嘉(字は奉孝)もその一人です。
二〇八年、曹操は荊州を占領、長 江を渡って劉備・孫權の連合軍と戦って赤壁で大敗しました。その時、曹操は「奉孝がいたなら、私をこんな目に遭わせなかったろうに」と嘆いています。
郭嘉はこの戦いの前年、曹操の烏丸征伐に従軍、帰還して間もなく三十八歳で病死しています。
曹操は「哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」とつづけたといいます。
郭嘉の葬儀に臨んだ曹操は、荀攸らに「諸君らはみな私と同年輩だ。ただ本孝だけが一番若かった。天下の事が一段落したら、後事を彼に託そうとしたのに、若くして亡くなってしまった。これも天命というものか」と述べ、彼のために上表して八百戸を加増して千戸侯とし、その子郭奕に後を継がせました。
郭嘉とはどんな人物か?
これほどまでに曹操にその死を惜しまれた郭嘉とはどんな人物だったのでしょうか?
彼は頼川郡陽雀の人で、初め袁紹に仕えたが、彼が人を用いる機微を知らず、策略を好みながら決断を欠くのを知って立ち去りました。
一九七年、荀彧の推薦で曹操に見え、天下の事を論じ合いました。曹操は「私に大事業を完成させてくれるのは必ずこの人物だ」と感服し、郭嘉は郭嘉で「このお人こそ、まことに私の主君だ」と喜んだ。この時、郭嘉は二十八歳でした。
以後、常に曹操の傍らにあって作戦計画を立案。的確な情報分析により、曹操の軍事行動を支えました。
袁紹の10の敗因、曹操の10の勝因
曹操は郭嘉に「私は袁紹を討伐しようと思うが、力では相手にされない。どうしたものだろう」と問いました。
郭嘉は直ちに、袁紹には十の敗因があり、曹操には十の勝因があると答えました。すなわち、道義、正義、政治、度量、策謀、人徳、仁義、聡明、法制、軍事の全てに曹操が勝っており、袁紹が公孫瓚と事を構えている間に呂布を討つべきだと進言したのです。
袁紹に対する評価
【決断力】
乏しい。策謀のみ多くて時機を失す。
【人材登用】
外面は寛大でも内心は猜疑心が強く、信任するのは親族ばかり。
【統率力】
大臣たちは権力争いを繰り返し、譲言で混乱。
【配下】
議論を好み、外見を飾る者ばかり。
【兵】
虚勢を張るが軍事の要諦を知らない。
曹操に対する評価
【決断力】
高い。方策が見つかれば直ちに実行。
【人材登用】
才能を持っているか否かで判断。親戚と他人で差別はしない。
【統率力】
道義を以って統御。讒言(他人を陥れようと告げ口をすること)が行われる余地なし。
【配下】
誠実で中身のある者ばかり。
【兵】
神の如く。少数で多数に勝つ才能がある。
水魚の交わり
郭嘉は計略に長け、物事の真実を把握していました。曹操は「ただ奉孝のみが私の意図を理解していた」と述べたといいます。
郭嘉には品行の修まらぬところがあり、人にしばしば指摘されたが、少しも意に介しませんでした。曹操もまた、それを気にせずに重用したといいます。
まさに劉備と諸葛孔明のような、君臣水魚の交わりだったのです。
参考:『三國志群雄録 增補改訂版』徳間文庫カレッジ、『真実 三国志』宝島社