夏侯楙(かこうぼう)、蜀に散々な目にあわされる夏侯淵の残念な長男【三国志 演義と正史の比較】




三国志

字は子林。本来は夏侯淵の長子だったが、叔父分の夏侯惇の養子となり、跡を継ぎます。

夏侯惇の死後に曹操の仲立ちで清河公主と結婚し、尉馬の位を授けられ、兵権を有してはいたが実戦の経験はありませんでした。

血筋から重用されていたが、軍事的な才能はなく、 金儲けが趣味という人。

演義の夏侯楙

夏侯淵の子。夏候惇の養子となる。227年、第一次北伐に出て来た諸葛亮を迎撃せんと名乗り出るが、実戦経験のなさを司徒の王朗に指摘されます。

夏侯楙「わたしは父、夏侯淵の仇を取っておりません。関西の軍勢を賜って出陣いたしとう存じまする」

司徒の王朗に反対されるが、振り切って長安へ出軍。しかし、実戦の経験がない彼は、蜀将の王平に捕まってしまいます。

その後、姜維を得ようとした諸葛亮の策で釈放され、天水城へ。行き場をなくした姜維が城門を開いたため、蜀軍に追われて羌胡城へ逃げ、そのまま戻りませんでした。

のちに司馬懿が夏侯淵の4人の息子、覇・威・恵・和を推挙したときに魏帝の曹叡が「その4兄弟は羌胡に逃げたきり、戻らぬ夏侯楙と比べてどうだ?」と問うています。

正史の夏侯楙

夏侯惇の次男。侍中尚書。若い頃から曹丕と親しかった。 曹丕が帝位に就くと、安西鎮東将軍、持節になり、死んだ夏候淵の持ち場である都督関中を受け継ぎました。

多くの妾を囲ったため、妻の清河公主と不仲になる。また弟たちとも仲が悪かった。 妻と弟によって誹謗され、逮捕されます。

曹叡は彼を殺そうとしたが、段黙の取りなしで救われる。魏延にまで「臆病で策のない男」と評されています。

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