甘寧(かんねい)、孫権に「曹操には張遼がいるが、 わしには興覇がいる」と言われた勇将【三国志 演義と正史の比較】




三国志

字は興覇。巴郡臨江の人。学問があり、仁侠肌でもあった。

演義の甘寧

もとは錦帆賊の頭目として川や湖を荒しまわっていたが、前非を悔い、手下をひきつれ、荊州の劉表に身を寄せた。しかし、その無能さに見切りをつけ、江東の孫権に仕えようとする。

だが、途中の夏口で黄祖に引きとめられ、配下となった。孫権が夏口を攻めた時、 凌操を射殺して黄祖を救うなどの活躍を見せるが、黄祖は「たかが江賊ふぜい」と軽視して、重用しようとしない。

黄祖配下の都督であった蘇飛に「人生は一度。よく進退を考えられるがいい」といわれ、孫権配下の呂蒙のもとへ降伏。

黄祖と戦って、その首を取り、孫権軍を勝利に導いた。戦勝の祝宴で、凌統に「父の仇」と斬りかかられ、孫権の配慮で、凌統と顔を合わせないですむ、夏口の守護に派遣された。

孫権のもとで甘寧は、前線を預かる武将として第一線を任され、次第にその資質を顕現させる。赤壁の戦いや合肥の攻略戦で活躍した。

赤壁の戦いでは、闞沢とともに、絶妙の演技で蔡中、蔡和を騙す。

合肥の戦いで先鋒を務め、襲いかかる矢石のなかを、城壁によじ登り、敵将朱光を打ち倒す。この祝宴の際、剣舞を舞って、ふたたび彼の命を狙う凌統に、「お相手いたそう」と両手に戟を持って対抗。慌てた呂蒙に止められる。

その後、合肥の救援に来た曹操の大軍に「三千の兵で迎え撃つ」という凌続に、「百騎で充分」と張り合う。 激怒する凌統を尻目に、白い鵞鳥の羽根を目印にした決死隊を率い、曹操軍に奇襲をしかけて大成功をおさめた。

「曹操には張遼がいるが、 わしには興覇がいる」と、いたく孫権を喜ばせた。

負けるもんかと、翌日、凌統も兵を出す。魏将・楽進と戦うが、曹休の射た矢を受け落馬。あわや楽進に突き殺されるか、というとき、甘寧の射た矢が楽進の顔面に突き刺さり、 凌統を救った。これにより、ふたりは怨みを水に流し、和解した。

関羽の弔い合戦である、夷陵の戦いのときに沙摩柯の矢をまともに頭に受け、富池口付近の大樹の下で壮烈な戦死を遂げた。このとき、樹には数百羽の鳥がとまり、甘寧の死体を守ったという

正史の甘寧

先祖は南陽の出身。一度、蜀郡の丞となるが、官を捨てて帰郷。近所の無頼の若者を集めて、その頭領となり、人を殺したり、強盗を働いたり、罪人をかばったりと、二十年余り暴れまくる。

一味は派手な刺繍の衣装を着て、錦の綱で船をもやったりして、豪箸に威風をはらっていた。

魯粛のもと、益陽の守護にあたっていたとき、関羽が三万の兵を率いて攻めてきた。

このとき、僅か一千の兵で対抗。甘寧が来たと知った関羽は、河を渡らずに軍を返した。以来、そこを関羽瀬と呼ぶようになったという。

孫権配下の大将となっても、粗暴な性格は直らず、よく人を殺した。失敗した料理番を、呂蒙には殺さないと約束しながら、射殺したりもした。だが、磊落(らいらく。心が広く快活で、小さな事にこだわらない)で物借しみをしなかったため、配下の兵たちには慕われていた。

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