秦による楚との激戦の流れ(紀元前226~223年)
①紀元前226年、秦の相国であった昌平君が秦を出奔して、楚に帰国。
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②秦の李信軍、楚の安陵・平輿を攻略。
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③ 秦の蒙恬(もうてん)軍、楚の寝を落城させると、李信軍との合流地・城父に向かう。
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④秦の李信軍、合流地である城父に向かう途中で、楚将の項燕の奇襲にあって敗北。
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⑤紀元前224年、秦の王翦(おうせん)が総大将となり進軍。その後1年かけて楚を平定する。
李信とはどんな人物だったのか?
性格は?
本格化する秦楚戦争で、重要人物として登場するのが秦の李信という将軍だ。
李信は出身も生没年も不明の謎に包まれた人である。漢の将軍・李広の先祖とされ、その家系には唐代の詩人・李白が連なるとされる。
『戦国策』によれば、李信が歴史に初めて現れるのは前229~前228年の趙討伐戦で、総大将王翦の麾下として太原・雲中まで出征していることが記されている。
また李信は年少で血気の勇があったという。恐らく昭襄王、呂不韋にも仕えていたであろう王翦とは異なり、新体制下でのし上がった政(のちの始皇帝)の子飼いの将軍だったようだ。賢明で勇敢な将として政の覚えもめでたかった。
王翦との対立
「史記」の白起王翦列伝では、秦楚戦争の経緯が詳しく記されるとともに、好対照な李信・王翦の物語がある。以下がその内容だ。
政は楚攻略にあたり、李信に問うた。「楚を攻め取るにはどれだけの兵力が必要か」。
李信は「20万人あれば十分です」と答えた。
政が同じ問いを王翦にしたところ、王翦は60万人必要です」と答えた。
政は「王翦将軍も老いて臆病になった。果断勇壮な李信にまかせよう」とし、李信と蒙恬括(蒙武の子)の若い将軍2人に20万の兵を与えて、楚討伐に向かわせた。一方、王翦は病気を理由に引退した。
楚に敗北
秦軍は東進して、楚領奥深く進撃し、李信軍は平輿(河南省駐馬店市)、蒙恬軍は寝丘(同信陽市)を攻撃して勝利した。
李信はいったん兵を返して城父(同平頂山市)で蒙恬と合流することにした。
しかし、これが痛恨の失敗となった。
この間、楚軍は三日三晩、野営もせずに李信軍を追っていたのである。油断していた李信軍を楚軍が奇襲する。李信軍は7人もの将校が討たれ、敗走した。
大敗を知った政はすぐに王翦の元を訪ね、謝罪し、懇願した。「あなたを用いなかったのは私の誤りだった。楚軍は秦に向かって進軍中だ。私を見捨てないで、どうか病をおしても出陣してほしい」。王翦は固辞したが、再三の説得を受けた末、前言通りの60万人の兵を出すという約束を得て、前224年に出陣し、1年かけて楚を平定するのであった。
参考:別冊宝島『春秋戦国時代合戦読本』、KAWADE夢文庫『始皇帝と戦国時代』など