曹操があこがれた2人の英雄 曹騰と橋玄 2/2ページ目




三国志

あこがれの人・橋玄

軍事においては祖父・曹騰からの遺産とも言えるものに支えられていました。

一方で、内政、つまり行政能力は橋玄という人物を理想としていました。橋玄は、曹騰が推挙し後に司徒になる人物が目にかけた者でした。

豪族の不法を許さず、外戚・宦官との関わりを持つ者でも、その不法行為は弾劾しました。

また、わが子が人質にとられで立て籠もられた際には、誘拐犯の攻撃を主張し、犯人もろともわが子を落命させています。たとえ自分の子であっても、人質を助けるために身代金を払うべきではないと述べ、その後、洛陽では人質事件が途絶えました。

曹操の法的な厳格さは、橋玄から受け継いだものなのです。

 

「入りては相、出でては将」

橋玄は、代々伝わる儒教の継承者で、その家学は「橋君学」とも呼ばれました。この点については、曹操が影響を受けていないことは、孔子の子孫・孔融との対立を見ても明らかです。曹操はむしろ儒教の破壊者でした。

橋玄は、西北方面の総司令官として異民族を撃退し、辺境に安定をもたらしました。

このように橋玄は、戦場で活躍する一方で、内政にも通暁して三公を歴任しました。「入りては相、出でては将」と言われる理想的な人物だったのです。

参考文献:『人事の三国志』朝日新聞出版

タイトルとURLをコピーしました