王賁(おうほん)、父親は将軍の王翦で、政の中華統一を支えた信のライバル【キングダム 漫画と史実の比較】




キングダム

漫画キングダムの王賁

父の王翦との微妙な関係

王家の嫡男。父親は将軍の王翦(おうせん)。幼いころより厳しい武芸の鍛錬を重ね、槍術に関しては信の剣技すら圧倒するほどの腕前を持つ。

玉鳳隊を率い戦場で武勲を上げ続け、五千将まで上り詰めた信の最大のライバル。

父の王翦との関係性は希薄で、軍略に王翦が絡むと介入を拒むなど私情を挟むことも…

対合従軍

合従軍との戦いでは二千人将として騰軍に参加。

騰軍が媧燐軍に包囲されるという窮地に、騰より臨時の五千人将に任命される。

左軍を率い、右軍の蒙恬と呼応し、見事な采配を見せた。戦争終了後には三千将に昇格する。

著雍(ちょよう)での魏軍との戦いでは、飛信隊、録鳴未(ろくおみ)隊と共に三点の要所の同時攻撃を進言。

魏火龍七師のひとり紫伯(しはく)を再戦で討ち取り作戦を成功させる。これらの功績により五千人将へ昇格。

史実の王賁

政の中華統一を支える

王賁は王翦の子。武門に生まれた関係上、早くから武の道を歩んだと思われるが、「史記』での初登場は秦王政21年の燕討伐戦で、都を陥落させたのち、王賁は休む間もなく楚への侵攻、続いて魏討伐を命じられ、いずれも期待に応えている。

同25年には燕王の喜が逃げ込んだ遼東への遠征を命じられ、これを捕らえるという手柄を立てると、すぐさま軍を返して趙の残党が建てた代(だい)を攻め、こちらでも代王の嘉を捕らえるという功績を挙げている。

まさに、政の中華統一への歩みを支え続けた武将といえよう。

後世の評価は低い

王賁ではなく父の王翦に対する評だが、司馬遷は「秦の補佐として徳をたて、根本を固めることはできなかった」「主君のきげんをとり身を全うするのがせいいっぱいで、一生を終えたにすぎない」と厳しい言葉を並べている。

これは王賁にも当てはまるものと見なしてよい。その理由は王賁の子の王離(おうり)が大いに期待されながら、項羽相手に難なく捕虜にされたからで、父子二代で築いた武門の名声は三代目にしてあまりにもあえなく潰えたのだった。

参考:『キングダム公式ガイドブック覇道列紀』集英社、双葉社スーパームック『春秋戦国の英傑たち』

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