後漢の主簿。建安七子のひとり。名文章家として知られる。
演義の陳琳
跋扈する宦官を一掃するため、大将軍の何進は、各地の群雄に兵を率いて上京するよう、檄を送ろうとした。
それに対し「群雄を都に入れれば乱のもとになる」と反対。しかし、何進は聞かず、董卓の乱が起こることになる。
この乱を逃れて冀州に。袁紹の記室に取りたてられる。
官渡の戦いでは、曹操打倒の檄文を作成。罵られた当人の曹操まで感心させる名文を書いた。
曹操が冀州を陥落させると、その才を惜しまれ、従事として仕えた。
正史の陳琳
曹操に降伏した後、司空軍謀祭酒になる。軍事、国政に関する文書や檄を多く作成した。のち、門下督に移る。
あるとき、頭痛の持病に苦しんでいた曹操は、陳琳の作った文の草稿を読んで、頭痛が治ってしまった。
横たわっていた曹操は、いきなり立ちあがり「こいつの文は、わしの病を治した」と叫び、手厚い褒美を与えたという。
曹丕には「陳琳の文は雄健だが、少し繁雑だ」と評されている。