鍾繇 しょうよう、鍾会の父で司馬懿の復権を主張【三国志 演義と正史の比較】




三国志

字は元常。穎川郡の人。魏の相国。

演義の鍾繇

長安郡の太守。

馬超・韓遂が長安城を攻めると、潼関に落ちのびる。この時、弟の鍾進は龐徳に斬られた。

曹操が魏王になると、相国になった。

司馬懿が諸葛亮の策で失脚し、替わった曹真が連戦連敗すると、曹叡に対し一族の命を賭して司馬認の復権を訴え、司馬懿を復権させた。

曹叡に対し、失脚した司馬懿を用いるように進言し、保障のために自分の家族を人質にしてもよいとまでいったのである。

銅雀台の完成披露の宴席で、ほかの文人たちとともに曹操をたたえる詩をつくった。

正史の鍾繇

荀彧の推薦で曹操に仕える。

司隷校尉として長安に赴任し、関中の治安維持に功績をあげて前軍師となった。

この時、河北の曹操に良馬を贈って喜ばれた。

文帝の信頼を受け、魏の相国から太尉へと昇進。

荀彧を非常に尊敬しており、荀攸とも親しく、その十二の計策すべてを知っていた。

かつて吉茂は兄を処刑されたことから鍾繇を恨んでいたが、鍾繇は吉茂を推挙し、吉本に連座して処罰されるのを救った。

優秀な幕僚だが、司馬懿に命じられて平民出身の州泰を揶揄し、逆にいいまかされたこともある。

また、離縁した正妻と復縁するよう曹丕に命じられ、憤激して毒の代わりに山樹を食べすぎ、口がきけなくなるなど、意外な一面も持っている。

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