賈充(かじゅう)、司馬昭の腹心として魏帝曹髦を殺し晋の功臣に【三国志 演義と正史の比較】




三国志

字は公閣。魏の将にして司馬昭の腹心。建威将軍・賈逵の子。手足となって司馬氏を助け、野望の達成に忠実に協力した。

演義の賈充

蜀討伐をはかる司馬昭に対し、まだ機が熟していないことを言い、反心を抱く曹髦を誅殺。蜀征服後は、成都に入り人心を落ち着かせた。

旧主曹髦を討った経緯は以下の通りです。

皇位纂奪を考える司馬昭に遣わされて、 東方諸州の大将軍たちの心底を探った。

このとき反抗的だった諸葛誕の態度を報告し、彼を討つよう司馬昭に進言した。

また、司馬昭に不満を抱く魏帝曹髦(そうぼう)を殺すよう勧め、クーデターの際には宮中に乗りこんで、末将の成済に

曹髦を殺させた。

尚書令の陳泰は、司馬昭に賈充を斬るよう進言したが、聞かれなかった。

司馬昭の死後は、司馬炎に曹操父子の功罪を総括してみせ、「司馬昭の功績は曹操の比でない」といいきり、纂

奪を決意させ、受禅台(禅譲の儀式を行う台)を築く。

呉を平定後、洛陽に護送されてきた呉主孫皓に「人の目をくり抜いたり、頭の皮を剥いだりしたのは何の刑か」と問うて

「臣下でありながらその君を獄したりするような人間にそうしたまでだ」と切り返された。旧主曹髦を獄したことのある賈充は言葉を失ったのである。逆に主殺し (曹髦)のことをあてこすられ、恥じ入った。

正史の賈充

買逵の跡を継いだ息子。郭淮の弟である郭配の娘婿。

賈充は自ら曹髦と剣を交えて戦い、成済を叱咤して曹髦を殺させた。

司馬昭が手を汚さずして曹髦を葬ったのは、賈充のおかげといっていい。晋王室において最高の功績を上げた臣として、官位は太宰にまで上った。

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