簡雍(かんよう)、劉備とは旧知の仲の幕僚で、劉璋に降伏を説得【三国志 演義と正史の比較】




三国志

字は憲和。劉備の幕僚。同郷の劉備とは旧知の仲。糜竺、孫乾とともに早くから劉備に従った。

演義の簡雍

常に劉備と苦労をともにした。劉備と呂布が戦うと、糜竺とともに徐州に残り、徐州が曹操の手に落ちると、 劉備とともに袁紹のもとに身を寄せ、新野で曹操の大軍に追われると、一同逃げまどう。新野の混乱では槍傷を負って、趙雲に助けられた。

この曹操軍に追われた時には次のようなエピソードがある。

曹操の侵攻に対し、劉備は領民を連れて、新野から避難することになる。行軍中、突然おきた狂風が土煙をあげ、日光を遮ってしまう。劉備が何の前触れかと問うと、いくらか陰陽道の心得があった

簡雍は大凶だと占った。はたしてその夜、曹操軍の追撃を受け劉備一行は壊乱状態となったという。

劉備が益州に入ると、劉表に降伏を勧める使者として入城した。劉備が益州の牧となると、諸将ともどもさらなる官位を授けられた。

正史の簡雍

益州の劉璋に気に入られていたため、劉備は降伏するよう劉璋を説得する役目を簡雍に負わせた。

のちに、劉章に降伏を勧める使者となる。成都に入城した際、倣慢な振舞をしたため劉璋配下の秦フク(「 うかんむり」に「必」)に大喝される。すると笑顔で非礼を詫び、秦フクとともに劉璋に目通りして説得に成功した。

倣慢で無頓着で、誰に対しても長椅子をひとりじめして寝たまま話をした。しかしさすがに劉備と諸葛亮だけは別だったらしい。

劉備が禁酒令を出したとき、酒造りの道具を持っている者まで罰するという行きすぎを諌めた、機知に富んだやりとりは有名だ。

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