王朗(おうろう)、孫策に敗れ、曹操・曹丕に重用され、諸葛亮に論戦で敗れ悶死した元会稽太守【三国志 正史と演義の比較】




三国志

字は景興。会稽の太守。王粛の父。

徐州刺史の陶謙の家臣だった時、天子に上奏文を奉ったのを契機に会稽太守に任命されます。

呉の孫策が自ら「東呉の徳王」と称して呉郡に勢力を有していた厳白虎を討とうとした時、厳白虎に味方して孫策に逐われます。

孫策に敗れたわけで、交州に逃れようとするが、家臣の虞翻の諌めで孫策に降伏します。

後に曹操に仕え、銅雀台落成の折には文官として曹操の徳を讃える詩を奉ります。

曹操に召し出されてからはよく仕え、曹丕以後も重用され、司空などの重職を担いました。

演義の王朗

曹丕の時代には、献帝に帝位禅譲を迫り、「退位しないと変事が起こる」と脅迫しました。つまり華歆とともに献帝を脅し、曹丕への譲位を迫った仕掛け人です。

後に司徒として、実戦経験のない尉馬の夏侯楙(かこうぼう)が諸葛亮と当たるのに不安を覚えるが夏候楙に一蹴されます。しかし案の定、夏侯楙は敗れます。

王朗は曹真を推し、自らも参謀として従軍するがすでに76歳の高齢でした。このとき諸葛亮に論戦を挑みましたが、負けて、悶死しています。

正史の王朗

正史では、天寿をまっとうしたことになっており、演義でのドラスティックな最期とは大きく異なります。

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