ディバラ(ユヴェントス)をもっと好きになる5つのこと 父の愛情、ポーランド、ニックネームの由来、憧れの選手など




サッカー

チャンピオンズリーグ2019-2020ユヴェントスVSアトレティコ:グループD5節、ユヴェントスはディバラのすばらしいフリーキックで勝ちましたね。

さすがのGKオブラクもセーブできませんでした。そこでディバラをもっと好きになる6つのことを紹介します。サポーター、ファンには常識かもしれませんが

父の愛情

グロリアという愛称を持つ、インスティトゥート・アトレティコ・セントラル・デ・コルドバは、アルゼンチンでは決して目立つクラブではありません。

ディバラは少年時代、このクラブでサッカー人生をスタートさせました。10歳でクラブに入団したのです。

父親がコルドバから55km離れた故郷のラグーナ・ラルガから毎日トレーニングに連れて行きました。

15歳のドラマ

20069月、15歳の時、父親のアドルフォが急死しました。

ディバラはサッカーから離れざるを得なくなりました。彼はもちろんサッカーを続けたこったのですが、毎日コルドバにトレーニングに行くことができなくなってしまいました。

しかし、すぐにクラブがディバラをコルドバに移り住ませてくれたので、再びサッカーができるようになりました。ディバラはこれまで以上に決意を持ってフットボールに打ち込みました。

家族とポーランド

ディバラにはグスタボとマリアーノの2人の兄がいます。2人ともアマチュアサッカー選手でした。

ディバラの母親のアリシアは、宝くじを運営する仕事をしながら、彼らを応援しています。

祖父のボアスワフ・ディバラはポーランドで生まれたので、ディバラは、ヨーロッパでプレーするためにポーランドのパスポートを持っています。

コルドバの「宝石」

アルゼンチンのジャーナリスト、マルコス・ビジャロボほどディバラのキャリアを知っている人はいません。

ディバラは彼から「La Joyaラ・ジョヤ」THE GEM ザ・ジェム(=「宝石」という意味)と名付けられた。ディバラはまだまだ荒げずりですたが、明らかに「宝石」だったのです。

このニックネームは今でも使われています。ディバラはエル・グラフィコとのインタビューで「試合前、ボヌッチはよく僕に『ヴァモス、ジョヤ、今日は勝たなくてはならない』と言うよ」と語っています。

ちなみに、最初のクラブでディバラは17歳でクラブ史上最年少の得点者となりました。コルドバ地方で生まれたアルゼンチンサッカー界の伝説、マリオ・アルベルト・ケンペスが以前に保持していた記録を破ったのです。

栄光の背番号21番

2015年夏、ユベントスは、ディバラがイタリアで最初に所属したクラブ・パレルモに移籍金3200万ドルを支払いました。史上8番目に高価なアルゼンチン人プレーヤーになったのです。

トリノに到着すると、すぐに背番号21番を選びました。ユヴェントスでは、ジダンやピルロが背負ってきたナンバーです。

これはディバラにとって大きなモチベーションにつながりました。「インスティトゥートではいつも9番でプレーしました、パレルモでも同様でした。しかし、ユヴェントスではモラタが9番でした。しかし、ちょうどピルロが移籍して、彼はぼくのアイドルでNo.21を着ていました。No.21はユーヴェのNo.10のようなもので重要なナンバーですから。」

とはいうものの、ディバラの最初のアイドルは、リケルメとロナウジーニョでした。「少年の頃、リケルメとロナウジーニョのようになりたいと思っていました」

そして、アルゼンチン代表で一緒にトレーニングをして指導を受けたメッシのファンでもあるそうです。

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