【三国志 正史と演義の比較】袁遺(えんい)、董卓討伐軍の諸侯の一人で、正史では曹操から意外な高評価【史実との違い】




三国志

袁紹の従兄で、 字は伯業、山場郡の太守。後には、袁紹の推挙で揚州剰史を務めますが、同地の支配をめぐって袁術と対立。

戦いに敗れ、逃亡先の沛(はい)で、兵士に殺されました。

演義の袁遺

董卓討伐の戦いでは、第八鎮として洛陽に攻め入りました。

華雄討たれるの報に驚いた董卓は20万の兵をもって洛陽を発し、そのうち5万の兵力を氾水関の守備にあて、残る15万を虎牢関に向かわせました。

虎牢関は洛陽より東におよそ50里の位置。ここに10万の兵を置けば、天下の諸侯は通路を失うとまでいわれた天然の要塞でした。

袁遺は、この虎牢関を攻めるハ軍の一つとなり、呂布に追い立てられる王匡の窮地を見て、喬瑁と共に敗い出すなどの手柄を立てています。

正史の袁遺

袁術の兄とあります。長じてからも学間をつづけたため、「成人してなおも学問に励む者は、自分と袁伯業だけだ」と、 曹操に賞されたといいます。

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