王伉(おうこう)、孟獲に加担せずに把城を守り、諸葛亮にも称賛された永昌の太守【三国志 正史と演義の比較】




三国志

孟獲の反乱にも加担していた薙闓が高定の部下によって殺害されると、諸葛亮の上表によって亭侯に封じられ、永昌太守に任じられました。

この上表のなかで、「絶縁の地において忠節を貫くこと十数年」と賞賛されています。

演義の王伉

225年に南蛮王・孟獲が10万の兵をもよおし、蜀の益州南部に迫りました。

孟獲に呼応して集結したのは、薙闓(ようがい)、高定朱褒(しゅほう)の各太守でした。

王伉は、このときの蜀国に対する謀反の企てに加担しなかったことで、三将の軍から攻撃を受けるが、呂凱とともに永昌の把城を死守しています。

すなわに、永昌郡の府丞であった王杭は、同じく永昌の郡史・呂凱とともに蜀郡の官民を統率し、国境を閉鎖し侵入を防いだのです。

正史の王伉

正史によれば、永昌郡の府丞だったといいます。また、この時の功によって王伉は永昌の太守に任ぜられています。

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