王頎(おうき)、帯方郡など辺境の太守で蜀滅亡時の魏の将。卑弥呼の邪馬台国とも外交【三国志 正史と演義の比較】




三国志

字は孔現。東菜の生まれ。朝鮮半島の喉元を抑える玄菟郡、蜀攻めの拠点となった天水郡、さらに倭国外交の窓口だった帯方郡など、辺境の地の太守を歴任した人物。

演義の王頎

蜀征伐に参加した一人で、攻略の際に、鄧艾(とうがい)の指示により、1万5千の兵を率いて省中へ攻め込みました。

蜀の姜維に対しては「魏の兵は100万、上将は1000人、20の方向から攻めて来たぞ」と、大音声で降伏を呼びかけ、姜維が討ちかかると、少し戦っては敗走しました。

やがて魏の別軍を率いる鍾会が陽平関をやぶるという働きがあったため、結果として蜀軍を追い詰めています。

さらに鄧艾の指示で伏兵として諸葛誕の子である諸葛睛(しょかつせい)を破り、綿竹城を陥落させました。

綿竹城落城後、蜀は滅亡し、王頎は天水に戻っています。

正史の王頎

毌丘倹のもとで、高句麗の鎮圧にも参加。弓遵の後任として帯方太守となり、倭国の卑弥呼に張政を遣わしています。

帯方太守のときには邪馬台国と狗奴国の不和を仲裁したこともあるといいます。

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