字は玄沖。太原晋陽の人。晋の侍中。魏末期の将・王昶の子。
演義の王渾
益州の刺史・王濬からの「呉を討つべし」との上表に対し、「もう1年様子を見て、呉の国力疲弊を待ってから攻撃するべきである」と晋王・司馬炎を諌めました。
司馬炎は一度は出兵を控えたが、血気にはやる司馬炎と杜預の上表と張華の勧めで、翻意、王渾も安東大将軍として長江を渡河し、横江に侵攻しました。
正史の王渾
呉征伐では丞相の張悌(ちょうてい)や丹陽太守の沈瑩(ちんえい)を斬って勝ち続けたといいます。
呉の建業に攻め寄せて王濬(おうしゅん)と手柄を争っています。その様子は『晋書』王渾伝に詳しいです。
名門の家柄で、子や弟、甥など一族子孫も、各地の刺史や将軍職、侯位などに就いています。