字は文謙。陽平郡衛国県の人。曹操配下の猛将。楽綝の父で、親子二代の魏の忠臣ということになる。
演義の楽進
曹操による、反董卓義勇兵の募集に応じて登場。
楽進「曹操殿が義兵を募っていると聞き、馳せ参じた次第でございます」
曹操の本陣付きの役人となる。弓の技術に秀でており、濮陽での対呂布戦では成廉を、袁譚攻めでは郭図をそれぞれ射殺している。
その後、漢陽での呂布戦、張繍攻め、官渡の戦い、赤壁の戦いと、曹操の戦いには、常に参加。
赤壁で魏軍が大敗を喫したのちには張遼らと合肥を守って孫権と戦い、孫権に斬りかかったところに盾になった宋謙を一矢でしとめている。
215年の孫権との再戦では楽進は龍城戦を主張した。しかし、これは入れられなかったものの出撃し、結果として大勝している。
濡須の戦い中には、呉将の凌統と五十合も渡り合った。なかなか勝負がつかず、曹操は曹休に命じ、密かに凌統に矢を射かけ、落馬させた。
しかし、呉からも甘寧の矢が飛んできて、楽進の顔面に突き刺さる。落馬した楽進はそのまま陣に連れ戻された。
正史の楽進
身体は小柄だが、性格は火のように激しかった。
はじめ帳下の記録係をつとめたが、曹操が反董卓の兵を挙げた時、仮司馬、陥陣都尉となる。
数々の戦いで一番乗りの武功を立て、広員亭侯、討冠将軍、行遊撃将軍と、次々に昇進していった。
曹操にも、「干禁、張遼と並んで、忠義で純一な性格。どんなに強固でも落とせない城はない」と絶賛されている。
その後も、折衝将軍、右将軍と昇進。千二百戸もの禄を受ける身となる。病死。威侯とおくりなされた。