字は叔治。北海宮陵県の人。青州の別駕(補佐官)。
演義の王修
はじめ、北海太守の孔融に召し出されつづいて袁譚に仕えていました。孔融に仕えている頃、孝廉に推挙されるが都へは上りませんでした。
袁紹の長子・袁譚と参謀の郭図が、表紹の末子・袁尚とその参謀の審配の暗殺を企てているところに居あわせ、袁譚をたしなめるが、かえって怒りを買い、職を解かれました。
袁譚が曹操に殺されると、 曹操に遺体を埋葬したいと願い入れて許されます。
その首の前で泣き、曹操に対しては恐れることなく義を説いたことで曹操に感心され、引き立てられました。司金中郎将に任ぜられ、魏の建国後は高位に昇りました。
正史の王修
正史によれば初平年間に孔融の主簿となり、その後袁譚の治中従事になっています。
狼郡太守の地位にある時には、賞罰を明確に示した行政を布いたため、郡民に称えららました。