河東郡解良県の人。もとの字は長生。
身長九尺。髯の長さは二尺。通称美髯公。顔はくすべた棗(なつめ)色。唇は紅をさしたかのように赤く、目は切れ長。蚕が伏せたような太く堂々とした眉を持つ。
演義の関羽
黄巾討伐の義勇兵募集の高札が縁で知り合った劉備と張飛が、酒を酌み交わすところに登場。
三人は意気投合し、張飛の屋敷の桃園で、義兄弟の契りを交わす。関羽は次兄となる。
曹操が董卓討伐の兵を挙げたとき、劉備とともに公孫瓚配下として参軍。
連合軍が手を焼く董卓配下の猛将・華雄を、曹操の献じた酒が冷めないほどの短時間で斬って捨てる。
呂布が討たれたあと、曹操に反旗を翻した劉備が大敗。下邳城を守る関羽も、曹操に誘き出され、包囲されてしまう。 張遼の説得に応じ、曹操に「三つの願い」を受け入れさせて降伏。
白馬の戦いで、曹操軍のために、 袁紹配下の顔良、文醜の二将を斬る。この間に、劉備が衰紹のもとに居ることを知り、二夫人を連れて劉備のもとへ駆けつける。
関羽「なぜわしが古い戦袍を着ているかですと。曹操殿、これは劉皇叔より賜ったもの。見ていると兄者の顔を思い出すのです」
道中手形を得なかったため、行く先々で阻まれ、五関に六将を斬って通過。劉備との再会を果たす。
しかし、汝南の戦いで劉備は、またも曹操に敗北。ともに、荊州の劉表を頼って落ち延びることになった。
赤壁の戦いのあと、大敗して逃げる曹操を華容道で待ちうけるが、かつての恩義を思って見逃す。
とにかく武勇談は数知れず、名馬・赤兎馬を駆り、戦場を縦横に往来した。のちに蜀の五虎将軍となっている。
劉備の入蜀後は、荊州に残って後方を守る。蜀で劉備に降伏した馬超の噂を聞き、一戦してみたいと駄々をこねるが、諸葛亮の「馬超の武勇は、関羽どのに遠く及ばず」という手紙になだめられる。
関羽の娘を孫権の息子の妻にと、縁談を持ちかけてきた諸葛瑾を「虎の子を犬の子にやれるか」と怒鳴って追い返し、呉との関係は険悪に。
その後、樊城を攻め、龐徳に左ひじを射られるものの、干禁を捕虜にし、龐徳を斬首する。
だが、後方への油断から、呂蒙に荊州城を奪われ、行き場をなくす。一時的に麦城に逃げこみ、劉封、孟達に援軍を要請するが、拒否される。
やむなく、間道を通って西川へ逃れるが、その途中で朱然、潘璋の伏兵に襲われ、義子の関平とともに捕らえられた。
孫権の前に引き出され、あくまでも降伏を拒んで処刑される。首は、曹操のもとへ送られ、洛陽郊外に葬られた。
関羽の死後、赤兎馬も餌を摂らなくなり、ほどなくして死んだという。
正史の関羽
黄巾の乱がおこり、劉備が軍を旗揚げしたとき、張飛とともに護衛官となる。
劉備が平原の相となったとき、別部司馬に。 曹操が下邳の呂布を包囲したとき、呂布配下の秦宜禄の妻、杜氏を妻にしたいと曹操に求め、許可される。だが下邳城陥落後、曹操に横取りされた。
樊城の戦いで、龐徳が射た矢を額に受ける。だが、そのまま戦いつづけた。ある時、宴会の最中に、左肘に受けた毒矢の手術をさせ、諸将を驚かせた。