丘力居(きゅうりょくきょ)、乱に乗じ青州、幽州、徐州、冀州を荒らす【三国志 演義と正史の比較】




三国志

遼東烏丸の大人(酋長)で、五千余という広大な規模の集落を治めて王を称していた。

演義の丘力居

記述なし。

正史の丘力居

青州、幽州、徐州、冀州の四郡にまたがり、ダイナミックに後漢朝の領地を侵した。

中山太守の張純が接近してくると、これと結んでさらに各地を蹂躙。

しかし霊帝の末期に、信義に篤く、昔から異民族に尊崇されてきた劉虞が幽州刺史になると、丘力居は路線を変更。使者を出して恭順しようとした。

劉虞を妬んだ公孫瓚が使者を殺害すると、カラクリに気づいた丘力居は間道伝いに劉虞と接触。反乱を終結させた。

のち丘力居は初平年間に死ぬが、後継者が幼少だったので力が衰えた。

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