河東郡襄陵の人。曹操、曹丕に仕えた魏の臣。
演義の賈逵
諌議大夫。建威将軍。
曹操の死後、軍勢をもよおし、洛陽に押し寄せ、あわばよく醜の王位を奪わんとする曹操の次男・曹彰を「王位を争う気か?」と説得し、見事に兵を引かせました。
呉の周魴(しゅうほう)が偽りの投降をして魏の楊州の都督・曹休を誘った際に、賈逵はただひとりだけ看破します。
さらに周魴が髪を切ってまで信用を得ようとしたのを知ると、曹休に故事をひいて警告しますが、聞き入れられませんでした。
賈逵「周魴が髪を切って投降したとのこと。これは偽りでございます」
周魴の、偽の降伏にひっかかった曹休から、軍勢派遣の要請がきた際、賈逵は 「敵の計略」だと見破ったわけですが、司馬懿が「逆に好機」と進言したため、賈逵は司馬懿とともに、揚州の曹休の援軍に駆けつけます。しかしこの戦いは結局大敗しました。
はたして曹休は敗走しますが、賈逵はあちこちに旗を立てて、伏兵がいるように見せて追っ手の追撃を寄せつけませんでした。
正史の賈逵
名家の生まれだが、幼い時に両親を亡くし、貧乏でした。
子供の頃から部隊編成の遊びが好きで、祖父の買習に「大人になったら指揮官になるにちがいない」と、数万字に及ぶ兵法を直接伝授されました。
曹操に気に入られ、丞相主簿となり、のち諌議大夫に昇進。曹操の死後、その葬儀を取りしきります。
『春秋左氏伝』を好み、毎日読んでいたといいます。一本気で正しいことを押し通したので、たびたび罷免にもなりました。
曹丕の時代、魏郡太守、丞相主簿祭酒、予州刺史を歴任、関内侯までになりました。
予州で、賈逵が造った二百余里に及ぶ運河は、賈侯渠と呼ばれた。死後、粛侯と諡されました。