士燮 ししょう、遠く南方の交阯太守で、孫権との交流を絶やさなかった【三国志 演義と正史の比較】




三国志

交阯太守。

演義の士燮

記述なし。

正史の士燮

若い頃京師で学問して、瀬川の劉子奇に師事した。茂才に推挙され巫県の令から昇進した。

交配は長安や洛陽などから遠く離れた地方にあるので、州の行政のほかに独自の軍事力で異民族を服従させなくてはならない。

こうした経緯から太守は独立したひとつの国の国主のような立場となる。

したがって外出は騎馬隊に守られ、帰還の際には鐘が鳴らされ楽隊が出迎えるという扱いだった。

しかし彼は温厚な人柄で慎み深く箸るということを知らなかったので中原の士人で彼のもとに身を寄せに来るものは後を断たず、汝南の許靖らも手厚い待遇を受けた。

漢の朝廷に毎年使者を送って貢納の義務を果たしたので安遠将軍、龍度候を与えられた。

また孫権が交州刺史を送ってくればその支配下に入り、息子を孫権に人質に出した。

孫権より武昌大太守に任じられ、毎年輩翠や南国の珍しい食べ物を孫権に送って数十年交流を絶やさなかった。

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