字は奉孝。穎川郡穎陰県の人。わずか38歳で亡くなった曹操の名軍師で、のちの赤壁の敗戦の折、曹操は「郭嘉さえおれば、このような敗戦はなかったろうに」と涙ながらに語ったといいます。
演義の郭嘉
程昱の推挙で曹操の配下となります。この時郭嘉は劉嘩を推挙しています。
劉備を殺すか否か
曹操が徐州の陶謙を攻めた際に同行、劉備からの和議を申し入れる使者を斬ろうとした曹操を諌め、「劉備に恩を売って、軍を退け」と進言しました。
一方、荀彧や程昱は、許都に劉備が逃れて来るとこれを殺せと曹操に進言しました。しかし、郭嘉は劉備を殺すと人心を失うと判断したのです。曹操もこの考えに従いました。
しかし、劉備が曹操のもとを離れたのを知ると殺すべきだと暗に諭しました。
曹操の懐刀
曹操と衰紹の対決が避けられなくなってくると、曹操に十勝の理由があり、責紹には十敗の理由があるといって曹操を勇気づけました。(これは弊ブログで以前に記事にしています。)
呂布が下邳城にたて篭もったときは水攻めにしろと進言しており、軍師とし曹操の中原制覇を戦略面で支えました。
その後も曹操に優れた助言をし続け、曹操が定めた「麦畑を踏み荒らす者は死罪」という軍律を曹操自身が不可抗力から破ったときには「法は尊きに加えず」とし、曹操の面目を保ったりもしています。
孫策の死を予言
曹操のもとに使者として来ていた張紘が孫策に報告したなかに郭嘉の言葉があります。
「孫策は短気で知謀がなく、やがて若輩の手にかかって死ぬだろう」という内容でしたが、孫策はその言葉通り許貢の食客に襲われた傷がもとで死んでしまいました。
袁紹死後を正確に分析
袁紹が死に、その後継争いが起こると、郭嘉はその成りゆきを正確に読んでいました。
そして北方の異民族を平定することを主張。しかし郭嘉は、その進軍の途中に風土病に倒れ、易州で養生中に帰らぬ人となりました。郭嘉の枢は許都に送られ、曹操から「貞侯」と諡されました。
やがて、後継争いをしていた袁尚たちの首が曹操に送られてきます。曹操はそれを見るなり「さすが奉孝」といいました。
曹操が皆に見せた郭嘉の手紙には袁尚たちが命を落とすと書いてあったのです。
正史の郭嘉
袁紹を見限る
はじめ郭嘉は北方に出向いて袁紹に会いました。その時、郭嘉は、袁紹の配下である辛評と郭図に、袁紹は人物を使う機微を知らず、決断力がないと語っています。結局、郭嘉は袁紹のもとを去りました。
策略に優れた穎川の戯志才が死ぬと、曹操はその後継者はいないかと荀彧に尋ねました。その時、荀彧が挙したのが郭嘉でした。
曹操は郭嘉を気に入り、郭嘉も曹操こそ自分の主であると確信したのです。
曹操に無くてなならぬ存在
その後郭嘉は呂布攻めや袁紹との戦いに的確な献策をしています。
袁尚が逃げた烏丸を討伐しようとした時、ほとんどの謀臣は留守に劉備が劉表を説得して襲ってくると反対しました。しかし、郭嘉だけが劉表は劉備を使えないと判断。烏丸討伐を主張。結果、郭嘉の考えた通りになったのです。
郭嘉は考え深くものごとの真実をつかんでいたのです。郭嘉だけが自分の意図をよくわきまえていると、曹操は常々いっていたと言います。
深く悲しむ曹操
郭嘉が死ぬと曹操は深く悲しみました。幕下で彼だけが若かったので曹操は郭嘉に後事を託そうと考えていたと語っています。
「哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」は曹操の断腸の思いが出ている言葉です。