【三国志】本当に悪役か?関羽を斬った男・呂蒙について知るべき〈5つのこと〉【呉下の阿蒙】




三国志

勤勉家

若い頃は血気盛んで、自分を馬鹿にした役人を切り殺して逃亡するという事件を起こす。しかし後で思い直して自首したため、孫策に勇猛さを評価されて側近に取り立てられた。
貧しい家柄から軍中で叩き上げ、軍功のみで出世し、その後に学問を修め、計略にも通ずるようになった、まさに努力の人と言える。また、兵士や民衆の心をつかんだ名将でもあった。

戦功、数知れず

黄祖討伐、赤壁の戦いで常に大将として活躍。南郡の曹仁攻めの際、甘寧の危機も救った。濡須の戦いでは、水軍を率いて後詰めし、曹操自ら率いる軍から、孫権を危ういところで救出した。
遡って建業遷都の際、呂蒙はすでに濡須の守りを固めておいたが、そのおかげで呉軍は危機をしのいだ。呂蒙の戦術眼の確かさが証明されたのだ。

関羽打倒

呂蒙の最大の功績で、彼の名を後世に残すきっかけとなったのが、陸遜とともに関羽に巧妙な作戦を仕掛け、処刑したことである。
当時関羽は荊州に駐屯し、呉にとって脅威でしかなかった。
魯粛没後、陸口を守っていた呂蒙は、荊州帰属問題を決着させるべく関羽打倒を画策。(大都督・魯粛は蜀とは北の魏に対抗するために和睦連合論であり、荊州は劉備にあずけることを主張し、関羽を排除することにも消極的だった。)
陸遜に計を授かったとはいえ、その戦略は見事の一言に尽きる。
まず関羽と友好関係を保つふりをする。関羽が焚城遠征に向かうと、病気と称して無名の陸遜と代わり、関羽が油断した[1]参謀の馬良が陸遜を軽視しないように進言していたのに…ところで密かに進軍し、荊州を奪取した。
その後荊州で一切の略奪を禁じ軍律を徹底させ、さらに関羽の部下の家族を手厚く保護したので、関羽の兵士たちは士気を失って離散。わずかな兵力となった関羽を麦城に追い詰め、捕らえたのである。

魯粛に勝る

呂蒙はもともと孫権が孫策の後を継いだ時に招聘した人材。周瑜、魯粛に続く、呉の大都督である。
演義では、戦勝の祝宴で関羽の亡霊に祟られて全身から血が吹き出して死んだ悪役になっているが、正史では孫権に惜しまれての病死である。
孫権は、優れた計略(言論と才気)においては周瑜に次ぎ、関羽を捕らえた積極さでは魯粛に勝ると評価している。
孫権の呂蒙に対する信頼は絶大だった。呂蒙の病気になると、あらゆる手段を使って治そうと手を尽くす。さらに自分が何度も見舞うことがかえって心労になるのではないかと心配して、壁に穴を開けて呂蒙の病状を観察した。そして呂蒙の調子が良さそうだと、ご機嫌になり大赦を出したという。

「呉下の旧阿蒙」に非ず

「お前ははいつまで経っても呉下の阿蒙だな」のように用いる。いつまでも進歩のない者という意味だが、実際の呂蒙は「阿蒙」のままではなかった。
呂蒙はもともと武勇に優れた少年だった。それに対して魯粛が学問にも励まなければいけないと教訓した。呂蒙はそれに従って猛勉強した。長じてから呂蒙は魯粛に関羽に対する五つの献策を行い[2]この時に感心した魯粛は呂蒙の母に挨拶をして呂蒙と友人の約束をした。、魯粛は「お弟は但武略有るのみ、今に至りて学識英識、復呉下の阿蒙に非ず」とほめたという故事成語。
ここれに対して呂蒙は「士別れて三日なれば、即ち刮目して相待すべし」と答えた。
こうして呂蒙は知勇兼備の将になったのである。
参考:『三国志 きらめく群像』ちくま文庫、『三國志群雄錄 増補改訂版』徳間文庫カレッジ、『三国志 武将百傑』学研パブリッシング、『超ビジュアル!三国志人物大事典』西東社、『絶対に人に言いたくなるろくでもない三国志の話』KADOKAWA、『三國志Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ Ⅶ Ⅷ 11 13 武将FILE』コーエーなど

脚注

脚注
1 参謀の馬良が陸遜を軽視しないように進言していたのに…
2 この時に感心した魯粛は呂蒙の母に挨拶をして呂蒙と友人の約束をした。
タイトルとURLをコピーしました