三顧の礼の真実② 諸葛亮は本命ではなかった?!劉備にとっての徐庶とは?




三国志
劉備の軍師と言えば、もちろん諸葛亮孔明です。
そしてこれもよく知られているように、劉備の最初の軍師は諸葛亮ではありません。単福(ぜんふく)こと徐庶です。
その後、真打のように孔明が三顧の礼で迎えられて劉備の快進撃が始まります。まるで徐庶は孔明の前座のようです。
しかし、これはどうやら違うらしい…むしろ孔明の方がおまけであったという説があります。
 

徐庶の代わりではない!

三国志演義では、徐庶は「単福」という偽名を用いています。
劉備に諸葛亮を推薦した徐庶は、孔明の友人の中で最初に劉備に使えました。
単家(「たんか」庶民の家系)の出身で、恩人のために人を殺して亡命した徐庶は、実は劉備のもとに集まった関羽や張飛などと社会階層が同じなのです。
 
 
演義では、徐庶は老母が捕らえられ、曹操の下に行く自分の代わりに、諸葛亮を推薦したことになっています。
しかし実際には徐庶の老母が捕らえられるのは長坂坡(ちょうはんは)戦い(208年)の際です。三顧の礼の1年後です。
ということは、徐庶は自分の代わりに孔明を推薦したのではなく、一緒に劉備のもとで働く仲間として、友人の孔明を紹介しているのです。
 

三顧の礼は徐庶のため!

 
そして劉備も徐庶が推薦するならばということで、徐庶に「君と一緒に来てくれ」と頼んでいます
しかし徐庶は孔明がなかなか配下にならないことを前提に劉備自ら訪問してリクルートすることを勧めました。これによって有名な三顧の礼となるのです。
当時劉備は、名目上とはいえ、左将軍であり、制度としては幕府も開ける地位でした。孔明を訪問することは過ぎたる礼だったのです。
ここまでで分かる事は、劉備は当初三顧の礼など尽くすつもりはなかったということです。徐庶に優秀な友人を紹介してもらった程度だったのです。
言いかえれば、諸葛亮が目的で三顧の礼をしたというよりは、徐庶を尊重していたのです。
 
 
いずれにせよ、諸葛亮の加入によって劉備の集団は、情義で結びついた傭兵集団から、諸葛亮ら名士を中核とする政権へと変容していくのです。
 
参考:『人事の三国志』朝日新聞出版部
 
 
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