【検証!三国志の真実】魏が中国統一をできなかった決定的な理由




三国志

衝撃的な人口減少

実は国力はすでに小さかったのです。呂布を退け、袁紹との戦いに勝利し、当時、中国の中心とされた黄河下流域の中原を制した曹操。

長江流域を制圧した孫権や、益州を奪った劉備に比べて、その領土は広く、国力には雲泥の差があったはずです。まずもってたいへんな先進地域で人口も多かった地域です。

しかし、それは同時代の孫権や劉備と比べてのものであり、時代をさかのぼって後漢と比べると、その国力は悲しいほどに小さいのです。

たとえば、党錮の禁が起こったころは、後漢には5600万もの人口がありました。しかし、「三国志』の記載から計算した人口では、曹操の魏で440万人、孫権の呉で230万人、劉備の蜀に至っては90万人という数字になります。合わせても760万人強という、衝撃的な数字が出てきます。ほぼ、7分の1まで人口が減ってしまったことになります。

もちろん、この数字にはいくつかの注意しなければならない点があって、各国が行った屯田制度の人口は、管轄が異なるために省かれています。屯田制とは、つまり軍隊とその家族が未開拓地に植民する制度です。

その屯田制度を曹操は大規模に行った記録もあるので、かなりの人数がこれで消えているはずです。また、貴族らが移住しただけでなく、民衆も流民と化して、田畑を離れたので、国が把握できる人口が激減したことも考えられます。

寒冷化と戦乱

しかし、気候的には寒冷期が進んでおり、農作物の生産に影響が出ています。戦乱も絶えないため、史書にも人口減に関する記述が各所にあり、かなりの割合で人口が減っていたことは間違いないでしょう。

このような状況下、曹操は後漢王朝を抱えており、その制度を維持しなければならなかったのです。後世の王朝が皇族たちの奢侈が原因で衰退した例や、袁術が贅沢で弱体化したことからも、王朝制度を維持していくのはお金がかかると理解できます。

さらに、後に魏王となった曹操は、自前の魏の制度維持も必要になります。しかも、中央から多くの人口が移住した揚州は孫権に、荊州や益州は劉備に割譲してしまった形です。

つまり魏は、呉や蜀に比べて、人口が多いし経済力も上で有利な立場にあり、収入面では遥かに凌駕していました。しかし、支出も莫大でした。

まず後漢時代の既得権益層を満足させなければなりません。このコストは元々呉や蜀も含めた大陸全体で賄っていたものでした。それを3分の2になってしまった経済力でカバーしなければならない負担は大変なものでしょう。そして、さらに自らの国造りもしなければならなかったのです。

魏は後漢に対して、縮小した国家という前提があるのです。ただでさえ寒冷化が進んで、人口が減少した時代です。それなのに呉や蜀という豊かな地域が分離し、さらに長い戦乱で中央の洛陽などは董卓らに荒らされ廃都同然。まさに、予算も三分されたような状況で、緊縮財政の色が濃いと言えます。

後漢から三国時代は、多くの人が質素倹約を説いた時期ですが、曹操はこれを命令として遺言にした記録があります。

曹操の高陵を見ても、後漢の王クラスならば、あるはずの玉衣(玉片をつなぎ合わせた死者の着物)がありません。もちろん、何度も盗掘されている場所ですが、断片すらなく、なかったと考えるべきでしょう。墳墓の壁も当時としては廉価なレンガの壁です。曹操の合理的性格もあったでしょうが、時代の要請もあっての険約なのでしょう。魏の出土品には、ワクワクするものが少ないんです。

このような苦しい台所事情からか、赤壁の戦い後の曹操は、中国統一に向けた大きな軍事行動が少なくなっていきます。そして、この空白の時間が、孫権や劉備に力をつけさせたことは否めません。

参考:『新説!三國志』枻出版社

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