華覈(かかく)、ひたすら呉を思い、孫権の子・孫休に注意を促し、暴君・孫皓をいさめた忠臣【三国志 演義と正史の比較】




三国志

字は永先。呉郡武進の人。呉の中書の丞。

上虞県の尉を振り出しに典農都尉を務め、文才・学才を認められて抜擢され、秘府郎から中書丞に引き立てられました。

譴責(けんせき。不正や過失などを咎めること)を受けて引退し、数年のうちに死去しました。

演義の華覈

264年蜀の滅亡後、呉帝の孫休に、「魏の次なる標的は我が国です。用心すべきです」と促しました。

これに対し、孫休の跡目を継いだ孫酷は「国の備えは十分だから、こちらから魂を攻めて蜀の仇を討ってやろう」と言うのに対し、

華覈は「兵をもよおすよりも民衆を王者の徳に懐けることこそ国力充実への道だ」として反対。孫皓の怒りを買った。

孫酷が外征しようとするのを諌めたわけですが、暴君の怒りを買って呉宮中から追放されました。

華覈は宮中から外へ出た途端に 「ああ惜しいかな、この錦なす美しい国土が久しからずして他人のものになろうとは」と嘆息し、隠遁してしまいました。

正史の華覈

奉った上書は百通を数え、また才能ある幾多の人物を推挙した、と賞されています。

韋昭(別名:韋曜)と親しく、彼が孫皓の怒りを買って処刑されることには最後まで抗議しました。

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