夏侯淵の四男。河南尹、太常、相国左司馬を歴任しました。
演義の夏侯和
兄の夏候威や夏侯恵とともに、司馬懿によって推挙される。諸葛亮の北伐に際して行軍司馬となり、夏侯恵らと蜀軍を撃つべく戦いました。
上方谷の戦いでは、司馬懿に蜀軍を急襲するよう進言。それを容れられて出撃し、勝利を重ねたが、敵の撤退は諸葛亮の筋書き通りのものでした。
蜀軍は諸葛亮の書いた筋書に従ってわざと負けたのです。このとき司馬懿が蜀兵を釈放しようとするのに疑問をはさむが、司馬懿に敵の士気を殺ぐためであると説明される。
半月の間に幾度となく勝利をおさめ、蜀軍の兵糧を奪い、蜀軍を悩ませました。
正史の夏侯和
鍾会の反乱の鎮圧に功を挙げました。
『世語』によれば、才気に満ちた議論をしたが、決して口舌だけの徒ではなく、不快感を与えなかったという。彼の弁舌は、むしろ爽やかだったとされています。
つまり弁舌爽やかで才気豊かな人物だったのです。