字は伯済。太原郡陽曲県の人。魏の行軍司馬。しばしば敗れた魏の将軍・張郃をかばいました。
227年に曹真の副都督となり、以来諸葛亮と戦う曹真·司馬認をよくたすけている。諸葛亮の死後も雍州を守り続けた。
253年に鉄龍山で鍵の大都督・司馬昭が姜維に囲まれる。郭淮は窮地の司馬昭を助けるために、副将の陳泰の計により羌族の迷当大王を捕らえて蜀への助力をやめさせ、そのまま羌族の手引きで蜀陣に斬り込みました。しかし、姜維の矢を額に受けて出血多量で死亡しました。
演義の郭淮
大都督・曹真の副都督として、諸葛亮の北伐に対抗。たびたび敗れました。
郭淮「異様な兵が木牛・流馬を運んでいくぞ。あれは神の助けだ、とてもかなわん」
また司馬懿に対抗意識を持つも敵いません。
諸葛亮の死後は姜維と戦う。羌族の迷当大王に内応させ、蜀陣に攻めこむが、そこで姜維の矢を眉間に受けて死亡。
正史の郭淮
各地を転任し、曹操の命で夏候淵の司馬となる。 曹丕の時、関内侯となり、関中の平定に尽力した。
曹丕が帝位に就いた時、病気のため祝賀に遅れるが、返答が気に入られ、雍州刺史代行、射陽亭侯に抜擢される。
諸葛亮の北伐を防ぎ、羌族を懐柔した功により、建威将軍となる。
曹叡のとき、雍州刺史に。夏侯玄の先鋒として蜀討伐に参加。司馬懿のクーデターで曹爽が殺されると、それに連座した夏侯玄に代わって、征西将軍に任命される。
諸葛亮の死後は、姜維と戦って撃退。 車騎将軍、儀同三司、陽曲侯に昇進する。二千七百八十戸を領した。 病死。死後、大将軍を追贈され、貞侯と諡された。