字は元譲。前漢創業の功臣夏侯嬰の末裔。曹操の父が夏侯氏の出なので、曹
操とは同族の間柄。つまり曹家に養子に入った曹操の父の一族のひとり。夏侯淵の従兄。
演義の夏侯惇
曹操軍に馳せ参じる
幼い頃から槍術、棒術を学び十四歳から武術の師について学んでいました。
その師を罵った男を殺したため各地をさまよっていたが、曹操が董卓打倒の義兵を募ったときには1000人の兵を引き連れて馳せ参じている。この時以来、常に曹操軍の先鋒として各地を転戦しました。駆けつけました。
曹操が献帝を擁した時は先鋒として帝の車を守りました。
射抜かれた左眼を喰らう
呂布との戦いで曹性に左目を射抜かれる。矢を抜くと左目が飛び出したが父母からもらった物は捨てられぬと叫んでこれを食らった。そしてそのまま曹性を討ちとりました。
夏侯惇「目を射抜かれたとてひるんでたまるか。この眼は父と母の血からできめおる。けして捨てるわけにはいかぬのだ」
関羽を討とうとする
曹操のもとから劉備のもとへ帰ろうとした関羽は、黄河の渡し口で夏侯惇の配下を殺した。そのため、関羽の後を追っていた夏侯惇は関羽を襲おうとした。しかし、これは曹操の命令でやってきた張遼に止められてしまいます。
袁紹との戦いでは程昱考案の「十面埋伏の計」に参加。
曹操のつぶやき「鶏肋」
新野侵攻では諸葛亮の火攻めにやられ、漢中攻めの際、曹操の「鶏肋(けいろく。鶏がらのことで、役に立たないことのたとえ)」という言葉を聞いた楊修からそれが撤退の命令だと聞かされます。
そこで用意をはじめると曹操の怒りに触れ、楊修は死刑、夏侯惇も殺されそうになるが許されました。もともと、曹操が楊修を殺そうとしたための処置だったからです。
曹操の臨終の床に呼ばれた夏侯惇は伏皇后など、曹操が謀殺した人々の霊を見て、その場で昏倒する。そして曹操の葬儀の最中に死去しました。
正史の夏侯惇
曹操は夏侯惇を尊重し自分の車に乗せたり、寝室に出入りさせたりしました。
隻眼になった経緯
呂布と争った際、降伏すると見せかけた呂布の将に捕まり人質となった。この時は韓浩が機転をきかせて敵を脅して攻めかかったので敵は平伏し、夏候惇を解放しました。
隻眼となった夏侯惇を陣中では夏侯淵と区別するために盲夏侯(もうかこう)と呼びました。夏侯惇はこれが嫌で、鏡を見るたびに腹をたてたという。
政治力
任地が干ばつとイナゴの害で不作になると、自ら土を運んで河をせきとめるための堤を造りました。
後漢ではなく魏の臣を熱望!
後に諸侯は漢からではなく魏から官位を受けていた。だが、夏侯惇だけは漢王朝の臣のままだった。
夏侯惇は曹操に訴えた。「自分は魏の臣下とならない待遇を受けるほどの功はありません」
しかし、曹操は答えていった。「とるに足らない魏がなんで、臣下としてお主に頭を下げさせるのだ。そんなことはできない」
それでも、夏侯惇は強硬に主張して魏の前将軍に任命してもらいました。
曹丕が王位に就くと夏侯惇は大将軍に任じられたが、数カ月後に死去したという。