関興(かんこう)、関羽の次子で張飛の子・張苞とは義兄弟!諸葛亮の北伐でも活躍【三国志 演義と正史の比較】




三国志

蜀の将。関羽の子。父譲りの猛将。

演義の関興

関羽の次子。張飛の子・張苞と義兄弟となり (張苞が兄)、コンビで活躍する。

関羽が晋口川で軍を撃ち破った際に陣中を見舞い、功労者の昇官を劉備に伝えよとの関羽の命を受けて成都部に向かい、役目を果たしている。

その後間もなく、父の関羽が麦城で呉の孫権に処刑される。関興がこの報を持って劉備の前にまかり出たところ、劉備はショックのあまり昏倒したという。

関羽と張飛の仇討ち戦で、関興と張苞は呉の若将軍・孫桓軍と対戦して、敵将李異を討ちとり讃雄を生け捕りにした。 新世代の台頭ぶりは、劉備を喜ばせ黄忠を発奮させる。

関興「それがしを先鋒にご命じください。父の仇を討ちとうございます」

関興は山中で父の亡霊に導かれて仇の潘璋を討ち、青竜刀を取り戻した。

のち張苞も父の張飛も殺され、父の仇討ちのための出兵を願い出た。そこに関興は父の喪に服すために白い抱、白銀の鎧といういでたちで駆け付け、劉備の悲しみの気持ちをかきたてた。

第一次北伐では命を受けて超雲の応援に行き、南安城を諸葛亮の策により張苞とともに取った。

天水城では姜維を降伏させるのに働きがあった。その後も諸葛亮の手足として数々の功績を立てる。

しかし、魏延とともに後詰めをして魏の将・張部を殺したのを最後に舞台から姿を消した。後に病死したとわかる。

正史の関興

関羽の跡を継いだ息子。幼いころから評判がよく、諸葛亮も才能を高く評価していた。しかし、二十代前半で死に、その子が跡を継いだ。

父である龐徳を関羽に処刑された魏将の龐会は、蜀が敗北した後、関羽の血を引く者を根絶やしにした。

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