韓遂(かんすい)、馬騰の義兄弟で、その子・馬超とは賈詡の離間の計により亀裂【三国志 演義と正史の比較】




三国志

演義の韓遂

涼州の盟主。献帝に密かに鎮西将軍に任ぜられ、西涼の太守・馬騰とともに密詔を奉じて、李傕らを討つべく長安に攻めのぼった。敗走して追いつかれるが、同郷のよしみで見のがしてもらう。

義兄弟の馬騰が曹操に殺されると、その子馬超と共に曹操に対抗した。

しかし、曹操の参謀・賈詡の離間の計にはまり、馬超の疑いを招く。やむなく曹操に降る決心をし、逆上した馬超に左手を斬りおとされた。 曹操が馬超を破ると、西涼侯に封じられた。

正史の韓遂

韓約ともいう。霊帝の末期、涼州で馬騰らとともに中央に反して旗揚げをした。

馬騰と義兄弟の契りを結んだが、涼州に戻ってからは互いに侵略しあった時期もあった。

やがて韓遂は関右で馬超と連合し、楊秋、成宜らと手を結んで、曹操に反旗をひるがえした。

曹操の離間の計により馬超と快を分かってからは、金城郡に移り、 氏族の部落に入り羌族一万騎を率いて、夏侯淵軍と戦った。

敗走して追われ、結局金城で亡くなり、 首は曹操のもとへ送られた。

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