孔融 こうゆう、劉備や太史慈などの客人を厚遇したが、曹操の逆鱗にふれ刑死【三国志 演義と正史の比較】




三国志

北海の太守。孔子の第二十代の子孫。父の孔宙は泰山の都尉。幼少の頃より神童と騒がれた才人。劉備や太史慈など

の客人を厚遇した。

演義の孔融

董卓を征伐するために集まった諸侯のひとり。虎牢関を攻撃するときの八軍に加わり呂布と戦った。反董卓連合軍に参加し、第十鎮として洛陽に出兵したのである。

のちに徐州の陶謙から加勢を求められたとき太史慈と劉備の加勢を得て徐州に行き曹操を防いだ。

曹操が献帝を擁したのちは、漢王室の官僚となる。太尉の楊能が表術の縁者であることで投獄されるが、これを諌めて釈放させている。

また劉備に敗北した劉岱たちを処断しようとするとこれを止めた。

さらに荊州の劉表への使者を依頼されれば禰衡を推薦するなど曹操にあてつける行為を繰り返した。

太中大夫の官のとき新野の劉備を攻めようとする曹操に反対してついに逆鱗にふれた。そんな時、不用意に洩らした一言

を密告されて打ち首になった。

正史の孔融

最初禰衡の才能を評価していた。また太史慈を立派な人物と聞くとその母親にも贈り物をするといった性格だった。

しかし、親友の脂習からは常に曹操に対する高慢な態度をたしなめられていた。

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