王昶(おうちょう)、魏の征南大将軍で王渾の父【三国志 正史と演義の比較】




三国志

字は文部。太原郡晋陽県の人。王渾玄沖の父。

曹不が帝位に就くと散騎侍郎に。曹叡の代には揚烈将軍、司馬懿が実権を握ると、征南将軍、司空と昇進を重ねました。戦功も多く、死後は穆公と諡された。

演義の王昶

252年、司馬師は孫権の死に乗じて呉を政めました。このとき、王昶は司馬昭の命を受けた征南大将軍として10万の軍勢を率いて、呉の支配下にあった南郡を攻めました。

司馬昭はこの戦いの最中に、王昶や胡遵、毌丘倹など呉攻めを命じた将軍たちに呉の拠点である東興郡を陥落させる作戦を伝えています。

そこで王昶は東興への侵攻をはかるが、呉の丁奉が東興で魏の胡遵を破ったという報に接し、戦うことなく一同は軍を退きました。

正史の王昶

正史には同郷の王淩とともに高名だったとあります。曹叡の時代になり、『治論』や『兵書』を著して上奏しました。

兗州刺史の時に玩籍と会見し、その人物の大きさに感嘆しました。

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