蒙驁もうごう、蒙武の父・蒙恬の祖父で長く活躍した老獪な武将【キングダム、史実では…】




キングダム

嬴政即位後、国政・軍事両面の人材を一新された。軍事面でも顔ぶれが大きく変わる。

昭襄王時代は、白起を筆頭に胡傷、楊授、張唐らの将軍が活躍していたが、彼らはフェードアウトしていく。

嬴政即位時には「将軍に任じられた」蒙驁、麃公、王翦の3人の名が現れる。

蒙驁(もうごう ?~前240)は、その一族も含め、嬴政体制に欠かせない将軍だった。

蒙驁は主に魏をはじめとした敵の押さえとして活躍。

蒙驁は斉の出身。秦の昭王のもとで上卿(しょうけい)という筆頭家老の地位にまで昇進する。

荘襄王(そうじょうおう)元年には将軍として韓領内に攻め込み、現在の河南省 中北部を奪取。これが三川郡(さんせんぐん)の設置につながった。

荘襄王3年には趙領内に侵攻して了の城を奪い、秦王政元年反乱軍を平定。

同3年には韓に攻め入り、2の城を陥落させたのに続いて、その翌年には魏のを奪うなど、華々しい活躍を見せた。

同じ5年には魏領内に侵攻して酸棗(さんそう)・長平・雍丘(ようきゅう)・山陽など20の城を攻め取るが、秦王政はこれを受けて同地に東郡(とうぐん)を設置。

それは単なる占領ではなく、秦の領土としての併合を意味しており、邯鄲の南から東に及ぶ同地の併合は趙にとっては甚大な脅威となった。

蒙鷲は秦王政の元年に王齮・麃公と並んで将軍に任じられていることから、彼らと近い年齢であったと思われる。

『史記』では秦王政5年を最後に彼の名が消えるが、死亡記事がないことから、引退したものと考えられる。

誰よりも多くの戦いを経験した老将として、乱世を生き抜いたのだろう。

さて、その子の蒙武は、嬴政磨下ナンバーワン将軍である王翦の副将として対楚戦争で功を顕す。

蒙武の子が蒙恬・蒙毅で、蒙恬はあの万里の長城築造の立役者、蒙毅は政の側近中の側近として重用された。

蒙一族は斉出身で、蒙驁の代で秦に移り、嬴政体制の中核を成す名族となった。

参考:別冊宝島2600春秋戦国時代合戦読本、双葉社スーパームック『春秋戦国の英傑たち』

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