キングダムの昌平君
丞相となった呂不韋に人材登用され、以来、彼の右腕として活躍。
呂不韋が相国になるのに伴い右丞相に就任した。一方で秦軍の総司令官も務め、軍略面の取りまとめを一手に担っている。
また、軍師の育成所を開校し、優秀な人材の発掘・育成にも力を入れている。
秦国が誇る軍略家として名を馳せていた昌平君は、呂氏四柱の1人ながらも秦軍の総司令に就任。
要地である魏・山陽の奪取作戦を展開するなど、導き出す作戦は常に奏の中華統一を見据えたものである。
かねてより軍総司令として呂不韋に背く意見を述べるなどしていたが、アイ国反乱の際に呂不韋とは完全に決別。
自ら先陣を切って反乱軍を討ち、反乱を鎮める。
史実の昌平君
生没年?〜前223年
秦で人質生活を送っていた楚の太子と秦の王女の間に生まれ、華陽夫人(孝文王の正妻)によって育てられた。
その後の経歴は一切不明だが、政の即位後は丞相を務め、ロウアイの反乱に際しては昌文君とともに、反乱の平定に当たった。
秦王政の3年には赴任先で、楚の項燕将軍により楚王に擁立されるが、翌年には楚に攻め入った王翦と蒙武に敗れ、戦死した。
参考:『キングダム公式ガイドブック覇道列紀』集英社、双葉社スーパームック『春秋戦国の英傑たち』