【新説⁈】明智光秀大出世の秘密!意外?!光秀は織田信長の一族衆!なぜなら濃姫の従兄弟だから…




明智光秀

明智光秀は、羽柴秀吉と同じく織田家中で実力で出世していったとばかり思っていました。しかし、どうやらその認識は改めなければならないようです。明智光秀は、正室濃姫が取り持つ形で、織田信長とは姻戚関係だったという説があります。以下で詳しく説明します。

新しい「斎藤道三」像

光秀の青少年時代についてもまったく知られていません。しかし、美濃国と斎藤道三と関係があったことは確かなようです。

当時、美濃国は下剋上の只中にあった。油売りから身を起こし、一代にして美濃一国の大名となった斎藤道三の生涯は、司馬遼太郎の『国盗り物語』によってあまりにも有名です。

しかし現在では、新史料の発見によって、「国盗り」は道三一代ではなく、道三とその父・新左衛門尉の2代にわたる事業であったことが明らかになっています。

道三の父は京都・妙覚寺の僧侶であったが、美濃の名族・長井氏に取り入って頭角を現し、長井姓を得て長井新左衛門尉となりました。

そして、大永年間(1521~27)に守護・土岐氏や守護代・斎藤氏から実権を奪いとっていきます。新左衛門尉は志半ばで死去しますが、子の長井規秀、すなわち道三が父の遺志を継ぎ、天文6(1537)年頃までには長井氏宗家を滅ぼし、守護・土岐氏も追放して、美濃国を完全に手に入れたのです。

明智光秀の生年が享禄元(1528)年だとすれば、美濃国が最も騒々しい時期に生を受けたことになります。

道三の近習としての光秀

戦国時代には政略結婚がつきものですが、明智氏と斎藤道三との間も例外ではなかったようです。

光秀の父とされる光綱の妹・小見の方が道三の正室になったとする説があるのです。しかも道三の娘の濃姫が信長の妻となっており、その母が小見の方だとすれば、光秀は道三と信長の2人と姻戚関係で結ばれていたことになります。

こういった事実・背景から、斎藤道三のもとに、若い頃の光秀は近習として仕えていた可能性が高いと言われています。なぜなら、光秀の叔母(小見の方)が道三の後妻に迎えられた縁で、光秀は稲葉山城に入り、道三のもとに仕えていたと考えられるからです。

さらに、道三と小見の方の間に生まれた娘、後の濃姫(帰蝶)は、光秀と従兄弟関係でした。濃姫は信長の正室となります。そうなると、後の織田信長と光秀の立場も、何となく見えてくるでしょう。光秀は、外様どころか、むしろ一族衆に近い立場だった可能性があるのです。

参考:『歴史旅人vol.5』晋遊舎ムック、『もっと知りたい明智光秀と本能寺の変』宝島社TJMook

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