基本情報
藤田行政 ふじたゆきまさ
生年未詳~天正10 (1582)年6月14日
通称「伝五郎」または「伝吾」
藤田行政は、美濃時代からの明智光秀の家臣であり、光秀とともに多くの戦に参加しまし、後に山城国・静原山城主にまでなった人物です。
前半生は光秀同様に未詳
光秀の父であった光綱の代から明智家に仕えていたとされますが、光秀と同様に前半生は不明な点が多く、詳しいことは依然として判明していません。
明智五宿老の1人
明智家臣団では、斎藤利三などと同じく譜代衆に属していました。
さらに明智五宿老の一人として数えられるほどの重臣です。
ちなみに「明智五宿老」は、斎藤利三(さいとうとしみつ)、溝尾茂朝(みぞおしげとも)、明智秀満(あけちひでみつ)、明智光忠(あけちみつただ)です。
本能寺の変に反対
『信長公記』によれば、明智秀満、斎藤利三らとともに、光秀から本能寺の変の計画を打ち明けられた一人とされています。そして行政もまた、秀満や利三と同様に、その計画に反対したとされています。
本能寺の変
天正10(1582)年6月2日に起こった本能寺の変では、明智光忠、溝尾茂朝とともに第二陣・約4千を率いました。
三日天下…
本能寺の変後は、光秀と縁戚関係・友人関係にあった大和郡山城主・筒井順慶のもとへ赴き、光秀に力を貸すよう説得にあたりました。
しかし、順慶は情勢を伺うばかりで、行政は説き伏せることはかないません。
戦国の常識…
筒井順慶は、したたかにも、明智光秀と羽柴秀吉を二股を駆けて生き延びようとしていたのです。
順慶は、小部隊を明智軍の近江に派遣する一方で、他方でははやくも明石あたりに駆けつけてきた秀吉軍に味方すると誓詞を入れていました。
結果、山崎の合戦には出兵せず、翌日、京都に出向いて秀吉に拝謁し、遅参を叱責されたものの、大和郡山十八万石は安堵されています。
藤田伝吾の努力は徒労に終わったのです。
「洞ヶ峠を決め込む」
ここで余談ですが、「洞ヶ峠を決め込む」という故事成語をご存知でしょうか。この時の順慶の日和見的な態度が起源です。
筒井順慶は、光秀からの出陣要請を受けて、洞ヶ峠(ほらがとうげ)から情勢を観望し、明智勢不利を知ると、退却したとされているのです。
しかし、史実では、洞ヶ峠へ出陣したのは実は光秀です。6月10日、光秀は、順慶に圧力をかけるため、洞ケ峠へ移動したのです。むしろ日和見を許さないという意味になってしまいますね。
山崎での敗戦…そして自刃
山崎の戦いでは、明智軍右翼隊を率いて戦いましたが、総崩れとなり、行政も全身6ヵ所に傷を負い、淀まで退却せざるを得なくなりました。
そしてその翌日、光秀が逃げ込んでいた勝龍寺城陥落の報に接し、自刃して果てました。
父の代より仕え、満身創痍となりながら奮戦した重臣でした。
参考:マイウェイムック『明智光秀50の謎』、『歴史人2020年2月 明智光秀の真実』、『明智光秀五百年の孤独』宮崎正弘など