NHK大河ドラマ『麒麟がくる』でまた戦国時代に注目が集まっています。そこで、明智光秀と同時代を生きた徳川四天王筆頭・酒井忠次について詳しくまとめておこうと思います。
徳川家筆頭
いつ頃から「徳川四天王」という名称が用いられているのかは判然としませんが、「徳川四天王」の筆頭といわれるのが、酒井忠次です。(ちなみに、酒井忠次を除いた、残り3人は「徳川三傑」と称されています。)
譜代最高位
譜代筆頭という意味で、家康第一の重臣ということになります。実際、天正14年には家中では最高位の従四位下・左衛門督に任官されています。
東三河の指揮官
忠次は三河出身で、家康の古参家臣です。水禄6年(1563)の三河一向一揆では家康に従って戦いました。
翌永禄7年、忠次は家康に抗する小原師実の籠もる吉田城を攻め、大いに軍功を挙げました。
徳川家臣団のリーダー
家康は忠次の軍功を称え、吉田城を与えて東三河支配の拠点としました。
吉田城は渥美半島と東三河の平野部と山間部の結節点にあり、最重要地点でした。
こうして忠次は、家康の家臣団を指揮する立場になりました。
知将
忠次は武田氏、北条氏などとの合戦で、その知将ぶりを発揮しました。忠次は家康の主な合戦のすべてで、ともに戦いました。
三方ヶ原では、惨敗した味方が浜松城に逃げ戻ってくるのを、橋の上から太鼓を打ち鼓舞したといいます。
京に隠居
家康が5ヵ国を領有した後の、天正10年(1588)、忠次は子の家次に家督を譲ると、京都桜井に住みました。豊臣秀吉から在京料1000石として与えられたものです。家次は後に日井藩を立藩しています。
参考:歴史人No.111など