NHK大河ドラマ『麒麟がくる』でまた戦国時代に注目が集まっています。そこで、明智光秀と同時代を生きた徳川四天王のひとり・榊原康政について詳しくまとめておこうと思います。
先祖代々の重臣
三河出身で、元は家康の小姓でした。徳川家中では、武功派として活躍しました。
榊原康政の先祖は、父祖代々にわたり松平家に仕えていました。
永禄10年、康政は家康から与力を付属され、軍団を率いることになりました。与力には、中島氏、伊奈氏などの三河武士もいましたが、牢人衆も含まれていました。ここから家康に重用される人生が始まります。
「榊原がくると皆奮い立つ」
榊原康政は、本多忠勝と同様に武功一途の猛将です。おそらく学問とは縁遠く習字もあまりおこなわなかったでしょう。
アジテーター
榊原康政は合戦だけでなく調略にも富んでいました。とくに秀吉の悪口を戦場で撒き散らし、たちまちそれを自軍に信じさせ戦意を高めるアジテーターとして人気がありました。「榊原がくると皆奮い立つ」と評判が高かったのです。
秀吉激怒
元亀3年12月三方ヶ原戦争之図は、家康が死に直面した最大の危機、三方ヶ原の戦いを描いた絵ですが、三方ヶ原には、四天王では榊原康政と本多忠勝が加わっていました。
そして康政といえば、天正2年の小牧・長久手の戦いのエピソードが有名です。
康政は、豊臣秀吉を非難する文を送りつけたのです。これに激怒した秀吉は、「康政の首を獲った者には、望みの褒美を取らせる」といったほどです。
秀忠付
康政は家康から上野館林に10万石を与えられた。文禄元年(1592)からは、家康の三男・秀忠付を命じられます。
慶長5年の関ヶ原合戦では、秀忠とともに真田昌幸・信父子が籠もる上田城を攻撃しました。
その最中、家康から聞ヶ原へ進軍するよう命じられましたが、西軍との決戦には間に合いませんでした。
秀忠の恩人
これにより、家康と秀忠の親子関係が悪化したが、仲を取り持ったのが康政だったのです。
家康と関ヶ原に遅参した秀忠との間をとりなしたのは康政は、後に関東総奉行兼勘定方支配となり館林藩を立藩しました。
「腸が腐った」
身命を賭して家康に仕えた康政や忠勝ですが、社会が平穏になると本多正信のような知謀人が重用され、単純な猪突人は次第に遠ざけられました。
忠勝も康政も「(正信のために)腸が腐った」と、遠まわしに家康への恨みごとをのべています。
一途だっただけに自身の忠誠心への自己評価が、あまりにも高すぎたのです。君主として家康のほうがクールだったと言えるでしょう。
実際は…
ただし、実際には、徳川家内部では、本多正信を筆頭とする吏僚派が重用される一方、家康は武功派の代表格である忠勝をはじめ、榊原康政や井伊直政を政権の中枢にすえることにより、バランスを取ろうとはしています。
したがって康政や忠勝といった武功派だけを重用するのをやめたというのが実情だとは思います。
参考:歴史人No.111など