【三国志 正史と演義の比較】袁尚(えんしょう)、父の袁紹が言うには英雄の相がある…【史実との違い】




三国志

袁紹の三男で末子。母は劉氏、その美貌ゆえ、袁紹に愛されました。

袁紹は袁尚に英雄の相があると見ており、早くから後継者に指名していました。

演義の袁尚

201年倉亭の戦いで程呈の「十面埋伏の計」に敗れた衰紹は翌年、病をおして曹操と決戦しようとします。

父にいいところを見せようとした衰尚は出陣を決意、勇んで整陽に出かけるが、張遼と戦って大敗北。この報に接した表紹は病を発して息絶えます。

袁紹は臨終の際、劉氏に「袁尚を跡継ぎに」と聞かれ、領いて逝きました。ただちに審配によって遺言が作成されました。

しかし、これがもとで、長男の袁譚(えんたん)と、 跡目をめぐる争いが起こります。

わしは父上の遺命によって河北の主となったのだ

袁紹は、平原に立て篭もる袁譚を包囲、激しく攻めたてますが、窮地に立った袁譚が、曹操に降伏したため、逆に攻められて中山へ敗走。幽州の次兄・袁煕を頼ります。

しかし、ここでも曹操の執拗な追撃にあい、烏桓族を頼って逃げます。しかし、鳥桓族が曹操に降伏したため、今度は遼東の公孫康のもとへ。

しかし、公孫康の騙し討ちに遭い、首を斬られました。首は曹操へ送られました。

正史の袁尚

曹操に鄴城を包囲された際、降伏を申し入れるが拒絶されます。

夜陰に紛れ中山へ敗走。そこで袁譚に攻められ、袁煕に身を寄せます。しかし、部下の焦触、張南に襲撃され、烏丸を頼って逃走。遼東の公孫康の兵を奪い取ろうとし、逆に殺されました。

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