公孫瓚こうそんさん、劉備と親交があり、華北で袁紹と争う【三国志 演義と正史の比較】




三国志

字は伯珪。北平の太守。遼西郡令支県の人。盧植に学んでいた頃、劉備と親交があった。

演義の公孫瓚

袁紹を盟主にした董卓討伐軍に諸侯、第十四鎮として参加。

劉備・関羽・張飛が漢王室から冷遇されてるのを見かねて彼らを袁紹に紹介する。

のち孔融や陶謙たち八軍と虎牢関を攻撃した。その際、呂布と戦うが張飛に助けられる。

一旦帰国するが冀州を欲しがる袁紹と戦いとなった。苦戦を強いられたが超雲守

られ、また劉備の軍勢が平原から駆けつけ袁紹軍を不利に追いこんだ。のち董草の仲介で和解。

徐州の陶謙を助けに行く劉備に超雲と二千の兵を貸した。再び袁紹と戦うが数度の敗北の果てに冀州を去り、城を築いて篭城した。

あるとき、配下の部隊が衰紹軍に包囲され救援を求めてきたのだが、むやみに救援すると兵があてにするとして出兵しなかった。それが兵を見捨ててしまう結果となり、将兵の信頼を失い降伏する者が相次いだ。

最後は無勢となって城に火をかけられ妻

子と共に自害した。

正史の公孫瓚

容姿が美しく才能があり虚植のもとで経書を学んだ。

孝廉に推拳され遼東属国長史になり鮮卑に勝利した。

幽州の牧となった劉虞と険悪になり手柄を妨害すると冷遇を受けた。

董卓の専横が進む中、袁術と友好関係になり従弟公孫越を行かせるが戦死して袁家と不仲になった。一方で劉虞を追い詰め斬刑にしてその一族をも滅ぼした。

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