蒋琬 しょうえん、費禕とともに諸葛亮の後継者に【三国志 演義と正史の比較】




三国志

蜀の大司馬。零陵郡湘郷県の人。劉備の荊州時代に書記として仕官した。

劉備に従い益州に入った。北伐の際は蜀に残り、参軍として国内軍を統括する重責を担う。

諸葛亮の死後は費禕とともに蜀を支えた。

演義の蒋琬

劉備の死後は諸葛亮の南征に従軍し作戦の協議に貢献した。

馬謖が街亭で敗戦し処刑されるとき成都から来ていた。彼は諸葛亮に楚の国の故事を引用して諌めた。

優秀な人材をむやみに処刑するのを嫌い、馬謖の失敗に対して罪一等を減じるよう嘆願したのである。

諸葛亮の遺言で 「後継者は蒋碗、あとは費緯」と指名された。

こうして丞相大将軍になったが、これが面白くない楊儀は失言をして劉禅に処刑されそうになったのをかばい助命を願ってやった。

楊儀は蒋琬の度量の広さに恥じて自害した。

正史の蒋琬

諸葛亮、蒋碗、費禕、董允をの四相と呼んだ。

最初広都の長に任命されたが劉備が立ち寄ったとき仕事をやらず泥酔していたので処刑されそうになった。

そこを諸葛亮に止めてもらい免官で済んだ。

後に諸葛亮の死にも動じず冷静だったので人々の信任を得た。

姜維と費禕で計画した水軍での魏攻略の準備中に病死した。

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