張魯 ちょうろ、五斗米道の律儀な教祖【三国志 演義と正史の比較】




三国志

沛国豊県の人。五斗米道の教祖。

演義の張魯

漢中を根拠地とし、曹操に敗れた馬超を受け入れる。

劉璋の要請で、馬超を劉備戦に派遣。

だが、諸葛亮から賄賂を受け取った参謀の楊松の讒言を信じ、馬超を疑う。

馬超は劉備に投降し、益州は劉備の手に落ちた。

やがて曹操が漢中討伐に来る。降伏しようとするが、弟の張衛が反対。戦って大敗。巴中に逃げる。

宝物蔵を焼くよう勧める張衛に「宝物蔵は国家のものだから」と焼かずに封印。これに感心した曹操は、張魯の降伏後、鎮南将軍の位と一万戸を与えた。

五人の息子は、列侯に取りたてられた。

正史の張魯

祖父の張陵の代に五斗米道の布教をはじめる。父の張衡の跡を継ぎ、教祖となる。米賊とも呼ばれた。

劉焉が益州を治めているとき、督義司馬に任命される。

張修と共に漢中の蘇固を攻めるが、途中で張修を殺し、その軍勢を奪い取り、漢中を占領。

劉璋の代になっても服従せず、そのため母と家族を皆殺しにされた。

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