三国志

王双(おうそう)、身の丈九尺!万夫不当の大将軍!でも正史での存在感は薄い…【三国志 正史と演義の比較】

身の丈九尺(古代中国で1尺=23〜24㎝とすると身長184〜192㎝)にも及び、顔色は浅黒く、眼は黄色。虎か熊を思わせる体躯を誇った豪傑。
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王濬(おうしゅん)、王渾とともに呉討伐に功をなした名将【三国志 正史と演義の比較】

字は士治。晋の益州刺史。龍驤将軍として呉征服の軸となりました。
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王戎(おうじゅう)、呉降伏の原動力にして晋国きっての才幹!竹林の七賢人の一人!【三国志 正史と演義の比較】

字は溶沖。郷堺臨近の人。涼州刺史の王渾(呉討伐を王濬と争った王渾[玄沖]とは別人)の子。 晋の司馬炎に仕え、後に「竹林の七賢人」のひとりに数えられたほどの才気ある人物。 鍾会の推薦で司馬懿に認められ、出世を重ね...
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王修(おうしゅう)、曹操を感服させた義人で魏でも高官に【三国志 正史と演義の比較】

主君・袁譚が殺されると、その首の前で泣き、曹操に対しては恐れることなく義を説いたことで曹操に感心され、引き立てられました。司金中郎将に任ぜられ、魏の建国後は高位に昇りました。
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王渾(おうこん)、王濬と手柄を争って呉に攻め入った晋の名将!【三国志 正史と演義の比較】

呉の建業に攻め寄せて王濬(おうしゅん)と手柄を争っています。その様子は『晋書』王渾伝に詳しいです。
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閻象(えんしょう)、周の文王の故事を引いて袁術の即位を諌めた臣【三国志!この武将を知ってたら〝にわか〟じゃない!】

「周の文王は周王朝の基礎をつくった人物である。殷に仕えて西伯と名乗りました。勢いが盛んになり、紂王に捕らえられたが、許されて都を豊邑に遷しました。その人物、政治は儒家の範とされている。」
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王粲(おうさん)、曹操を支えた博覧強記の奇才!その詩才も愛される!【三国志 正史と演義の比較】

魏国建国後は侍中になりました。散らばった碁盤の石を寸分狂わず元に戻せるほどの記憶力を持ち、新しい儀礼制度を制定する際は、かならず主宰をまかされていました。
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王匡(おうきょう)、曹操の董卓征伐の檄に応じた八鎮の一人【三国志 正史と演義の比較】

字は公節。泰山の人。 河内の太守。 演義の王匡 何進に仕えて、軍需物資の輸送係などを務めていました。何進の没落後、郷里に帰って平民となったが、やがて河内の太守におさまりました。 曹操の董卓征伐の檄の機に応じて集結した諸侯...
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王頎(おうき)、帯方郡など辺境の太守で蜀滅亡時の魏の将。卑弥呼の邪馬台国とも外交【三国志 正史と演義の比較】

字は孔現。東菜の生まれ。朝鮮半島の喉元を抑える玄菟郡、蜀攻めの拠点となった天水郡、さらに倭国外交の窓口だった帯方郡など、辺境の地の太守を歴任した人物。
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王伉(おうこう)、孟獲に加担せずに把城を守り、諸葛亮にも称賛された永昌の太守【三国志 正史と演義の比較】

孟獲の反乱にも加担していた薙闓が高定の部下によって殺害されると、諸葛亮の上表によって亭侯に封じられ、永昌太守に任じられました。
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【三国志 正史と演義の比較】王経(おうけい)、魏への果てしなき忠節と母への深き孝行で名を残す良臣!

当時は司馬昭が専横を極めていました。魏への忠節から曹髦の司馬昭謀殺計画に参加しますが、発覚し処刑されてしまいました。
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【三国志 正史と演義の比較】王基(おうき)、毌丘倹の反乱を鎮め、諸葛誕の乱でも活躍した、魏きっての知将!

司馬師、司馬昭兄弟からの信頼が特に篤く、毌丘倹・文欽の反乱では、的確な献策で乱を鎮定しました。
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【三国志 正史と演義の比較】王允(おういん)、「連環の計」すなわち貂蝉と呂布を使って董卓を討った策士

長安に遷都の後、ついに歌姫の貂蝉を使って、呂布と董卓の仲を裂く「連環の計」を成功させ、呂布に董卓を殺させました。
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【三国志 正史と演義の比較】王威(おうい)、劉備暗殺を狙うも失敗…曹操への反乱計画もまた失敗…

荊州の劉表の部下。劉表の死後は劉綜に仕える。劉備の暗殺、曹操への反乱、どちらも失敗しますが、血気盛んな武将だったのでしょう。
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【三国志 正史と演義の比較】袁燿(えんよう)、袁術の嫡男だが呉(孫策・孫権)に臣従

袁術の嫡男。兵の質草に孫策から玉璽を手に入れた表術が皇帝を借称すると、東宮(後継者)にたてられました。父の袁術が次々と戦に敗れ、逃亡中に病死すると、孫策に許されて臣従しました。
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【三国志 正史と演義の比較】袁紹(えんしょう)、名門出身も器が小さくかつての不良仲間・曹操に敗れ中原の覇者になれず…

上流階級特有のおっとりとした上品さを保ち、感情を表に表わさなかったようです。だが、内心は好き嫌いが激しく讒言を簡単に受け入れるなど狭量なところがありました。若い頃は、曹操とは不良仲間でした。
サッカー

オブラク(アトレティコ)が世界最高のGKである事を証明した日! あるいはvsリヴァプール@19/20CLラウンド16第2戦

さて、そのオブラクについて賞賛がやみませんので、まとめておきたいと思います。それにしても、リヴァプールのこの日のゴールキーパーであったエイドリアンがミスを犯していただけに、際立ってしまいましたね。
キングダム

【キングダム】王翦(おうせん)は史実では主役級…李信も桓騎も何のその!実は中華統一に最も貢献した秦の大将軍!

秦王政がもっとも頼りにした秦の将軍。趙・燕・楚を制圧したほか、南方の百越も征服した無敵の武人です。
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【三国志 正史と演義の比較】閻宇(えんう)、宦官・黄皓にヘつらい、姜維を妬み続けた将軍【史実との違い】

宦官の黄皓と結託し、私欲のために蜀を危難に陥れます。姜維を妬み、黄皓を通じて姜維の職を自分に与えるよう劉禅に進言させます。
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【三国志 正史と演義の比較】袁胤(えんいん)、袁術の親類…玉璽は奪われて曹操のもとへ【史実との違い】

孫策に対抗するため、袁術によって丹陽の太守に据えられます。しかし、抵抗する術もなく敗れ、江東を逐われ、袁術の死後は配下を引き連れて劉勲の下に身を寄せました。
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【三国志 正史と演義の比較】袁煕(えんき)、元妻は曹丕に奪われて曹叡を産む女性【史実との違い】

演義では何も良いところがないのですが、正史では協力者がいて、烏丸族の酋長のひとりである遼西の躍頓は、特に袁煕を助け、曹操軍と戦っています。
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【三国志 正史と演義の比較】袁尚(えんしょう)、父の袁紹が言うには英雄の相がある…【史実との違い】

袁紹の三男で末子。母は劉氏、その美貌ゆえ、袁紹に愛されました。袁紹は袁尚に英雄の相があると見ており、早くから後継者に指名していました。
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【三国志 正史と演義の比較】袁術(えんじゅつ)、皇帝を勝手に名乗った男の悲惨な末路【史実との違い】

正史でも欲望のまま費沢三昧な生活と重い税金から、民が苦しんだとあります。
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【三国志 正史と演義の比較】袁遺(えんい)、董卓討伐軍の諸侯の一人で、正史では曹操から意外な高評価【史実との違い】

袁遺は、この虎牢関を攻めるハ軍の一つとなり、呂布に追い立てられる王匡の窮地を見て、喬瑁と共に敗い出すなどの手柄を立てています。
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