三国志

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郭図(かくと)、張郃が曹操へ走るきっかけを作った袁紹の参謀【三国志 演義と正史の比較】

鳥巣の救援をめぐっての進言がはずれ、その失敗を隠すため、張郃らを讒言(ざんげん。他人を陥れようとして、事実とは異なる告げ口をすること)。それが原因で、張郃は曹操のもとへ走ってしまう。
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郝昭(かくしょう)、司馬懿に抜擢され諸葛亮を苦しめた知将【三国志 演義と正史の比較】

諸葛亮軍は数万、郝昭軍は三千人あまり。勝負はすぐに決まるかと思われました。しかし郝昭は諸葛亮軍に対し一歩も引きません。その防御は見事という他なく、孔明を苦心させます。
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郭氾(かくし)、李傕とともに長安で暴れ回るが、曹操に献帝をとられてしまうミニ董卓【三国志 演義と正史の比較】

李傕とともに朝政を取りしきり、さながら「ミニ薫卓」と化します。これを嘆いた太尉の楊彪は、郭氾のが嫉妬深いのを利用し、「離間の策」によって李傕と仲違い違いさせたのです。このためふたりの間で、泥沼の争いがはじまります。
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郭嘉(かくか)、曹操が愛した夭折の天才軍師!劉備の行動も袁紹の無能も孫策の死も見通す慧眼【三国志 演義と正史の比較】

字は奉孝。穎川郡穎陰県の人。わずか38歳で亡くなった曹操の名軍師で、のちの赤壁の敗戦の折、曹操は「郭嘉さえおれば、このような敗戦はなかったろうに」と涙ながらに語ったといいます。
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三国志随一かも?!賈詡(かく)、董卓→李傕ら→張繍→曹操・曹丕と渡り歩いた稀代の策士【演義と正史の比較】

曹操のもとに来てから、賈詡は私的な交際をせず子供たちの縁談相手に高貴な家を選びませんでした。自分がもとからの曹操の配下でもなく策略に通じていることから疑惑を持たれることを恐れたのです。
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100円以内で料理できた!さばの味噌煮缶パスタ

・さばの味噌煮缶(110g)  →たしか50円くらい ・イオンのトップバリュ700g㎏198円パスタを100g  →約28円 ・めんつゆ(2倍濃縮)大さじ1 ➡︎合計 およそ88円
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霍峻(かくしゅん)、孟達配下の時代の馬超には苦戦も、孔明の下で葭萌関の守り通した勇将【三国志 演義と正史の比較】

孟達とともに葭萌関を守備。漢中の張魯に仕えていた馬超に攻められ苦戦し、劉備に援軍を求めました。馬超の帰順後は再び関を守った。
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鄂煥(がくかん)、方天戟を振るう豪傑で、諸葛亮の徳を説き離間の計を成功させた将【三国志 演義と正史の比較】

しかし、これは雍闓と高定の仲を裂ための「離間の計」。雍闓の疑いによって、高定の身が危うくなると、鄂煥は、怯える高定に進言して、雍闓をおびき寄せて殺害します。さらに同じ反乱軍のひとり朱褒も殺害。これによって反乱は収束しました。
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華歆(かきん)、孫策・孫権→曹操・曹丕・曹叡に仕え、献帝には禅譲を迫り、司馬懿の兵権を剥いだ大物【三国志 演義と正史の比較】

魏国建国後、御史大夫となります。曹丕が王位につくと、相国になりました。そして賈詡、王朗ら四十余名とともに、献帝に禅譲を迫りました。この時、華歆は、献帝の襟をつかんで強引に禅譲を迫ったといいます。
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何儀(かぎ)、曹操帰順直前の許褚に捕らえられた黄巾賊の残党【三国志 演義と正史の比較】

まだ無名だった許緒に捕らえられています。許褚は、この当時、まだ曹操配下ではありませんでしたが、典韋と一昼夜打ち合い、許緒が曹操に帰順すると、あっさり斬り殺されました。
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賈逵(かき)、曹操に気に入られ曹丕時代にも司馬懿とともに魏を支えた重臣。呉の周魴の偽計を見破るも…【三国志 演義と正史の比較】

賈逵「周魴が髪を切って投降したとのこと。これは偽りでございます」周魴の、偽の降伏にひっかかった曹休から、軍勢派遣の要請がきた際、賈逵は 「敵の計略」だと見破ったわけですが、司馬懿が「逆に好機」と進言したため、賈逵は司馬懿とともに、揚州の曹休の援軍に駆けつけます。しかしこの戦いは結局大敗しました。
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俄何焼戈(がかしょうか)、姜維時代の蜀に協力した羌族の武将。魏の陳泰の策にかかり壮絶な死【三国志 演義と正史の比較】

諸葛亮没後、萎維の北伐の際の頃、蜀の使者・郤(げきせい)から進物を受けた、羌族の王・迷当大王は、俄何焼戈を大先鋒に任命、5万の兵を与えて安南を攻撃させました。しかし魏の陳泰の偽りの投降に騙されて落とし穴に落ち、自刎しました。
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郭奕(かくえき)、曹操の数ある軍師の中でも最も愛された郭嘉の実子。王昶からの人物評も【三国志 演義と正史の比較】

親しかった王昶(おうちょう)が、『家誡』の中で「酒脱で物事の理解が早く、物知りだった。反面、度量の広さが不足し、好きな人は徹底的に尊敬するが、嫌いな人はとことん軽んじた」と、郭突の人柄を書き残ています。
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華覈(かかく)、ひたすら呉を思い、孫権の子・孫休に注意を促し、暴君・孫皓をいさめた忠臣【三国志 演義と正史の比較】

華覈は「兵をもよおすよりも民衆を王者の徳に懐けることこそ国力充実への道だ」として反対。孫皓の怒りを買った。
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蒯良(かいりょう)、劉表配下で、孫堅を討つ策を呂公に授けた策士【三国志 演義と正史の比較】

袁紹に加勢を求める使者にたつ呂公に「待ち伏せの計」を授け、呉の孫堅を山中に戦死させています。
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蒯越(かいえつ)、劉表傘下の名参謀!曹操曰く「荊州を得たより、蒯越を手中にした方が嬉しい」【三国志 演義と正史の比較】

劉綜の降伏後は、曹操から「荊州を得たより、蒯越を得た方がうれしい」と言わしめた逸材で、江陵太守、樊城侯に封ぜられました。
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何晏(かあん)、曹爽に愛され、管輅の予言通り司馬懿にたおされた悲将【三国志 演義と正史の比較】

曹爽の腹心と目され、太尉の司馬認を権力の座から遠ざけよと進言しましたが、司馬懿のクーデター時に一族皆殺しにされました。
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凶星(おうせい)、孫堅にあっという間に鎮圧される長沙の山賊…

荊州南部で反乱の前州南部を本拠にした反乱軍の武将で、長沙の山賊。なお、読み方は「おうせい」で、間違ってはいません。 正史「呉書』に名を残します。郭石、周朝らとともに荊州南部で反乱の兵を起こします。 しかし、その後長沙太守となり赴任してきた...
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王忠(おうちゅう)、ちょっと同情したくもなる、曹操に捨て駒にされた部将…関羽に敗れるも劉備に助けられるが…

王忠は、曹操から劉岱とともに徐州の劉備を攻撃することを命ぜられますが、袁紹と雌雄を決せんとしていた曹操にとって、初めからこのふたりは捨て駒にすぎませんでした。
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華佗(かだ)とは何者か?関羽が負った毒矢も治療した三国一の名医!だが曹操に対しは優れた医術が命取りに…

華佗は、毒が浸みた骨を削り取るという荒療治にも関わらず、談笑しながら碁をうち続ける関羽の剛胆に驚嘆し、「こんな人物 はかつていなかった。将軍は神様です」と告げました。
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王朗(おうろう)、孫策に敗れ、曹操・曹丕に重用され、諸葛亮に論戦で敗れ悶死した元会稽太守【三国志 正史と演義の比較】

曹丕の時代には、献帝に帝位禅譲を迫り、「退位しないと変事が起こる」と脅迫しました。つまり華歆とともに献帝を脅し、曹丕への譲位を迫った仕掛け人です。
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於夫羅(おふら)、中国を荒らし回った南匈奴の単于だが、演義には登場しない…【三国志 正史と演義の比較】

南匈奴であり、黄巾の乱が発生すると、その一派と合流。中国各地を荒らし回りましたが、曹操率いる討伐軍に敗れています。
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その忠義に天晴れ!王累(おうるい)、劉備を警戒し蜀(劉障)のために命を賭した諫言(かんげん)!【三国志 正史と演義の比較】

広漢の人。劉璋の忠実な家臣で、従事を務めました。元蜀の主・劉障への命をかけた諫言(危機への警告的なアドバイス)で知られる人物です。 演義の王累 蜀入りを望む劉備に対し、元からの蜀の支配者だった劉障は好意的に迎え入れようとしまし...
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王甫(おうほ)、関雲長の軍師と言えば、この人!関羽・関平親子の死に殉じた忠臣【三国志 正史と演義の比較】

関羽は、のちに呂蒙に荊州が奪われたとき「そなた(王甫)の進言を聞いておれば、こんな目には遭わなかった」と嘆いています。
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